Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

ハーバーマスのインタビュー記事「パリ攻撃の余波」

11月26日、Le Monde紙に掲載された、パリ攻撃に関するハーバーマスのインタビュー記事が早くも英訳されていた。
要点を翻訳・抜粋して紹介しようとおもう。

1.フランスの憲法改正について。
(フランスは憲法を改正して緊急事態の最長期間を12日から3ヶ月に延ばそうとしている:後述するが、非常事態宣言をだすと、国民の移動の自由や外出する権利を制限することになる。したがって、この問題は憲法にかかわる--訳者注)

--安全保障の専門家ではないから、判断は避けたい。ただ、オランドが提起する非常事態宣言とその延長は、国内のムードを象徴する反応であり、おそらく理にかなったものであろう。ただし、ドイツからみると、フランスの好戦的な態度に不安を感じる。

2.フランスのシリア介入の強化について

--ISISは、その脅威の境界が不透明で、国際的である。たんに空爆のみで打ち負かすのは不可能であろう。

シリアへのさらなる介入は、非現実的で愚かである。なぜならば、オバマがいうように、多国籍軍の成功は必ずしも保証されたものではないし、なにより、軍事力のみでISISの裏をかくことはできないためである。

1956年のスエズ危機を思い出してみよう。アメリカや西ヨーロッパ、ロシアが地政学的、経済的利益をもとめておこなった政策は、この地域の壊れやすい、人為的かつ破綻した植民地時代の負の遺産に直面した。
これら、アメリカ、西ヨーロッパ、ロシアの力の行使は、結果として、この地域の紛争を引き起こした。
スンニ派とシーア派の対立がISISの力の源になっていることは周知の事実だが、この問題の根源は、ジョージ・W・ブッシュ大統領のもとでおこなわれた、アメリカの国際法違反の介入なのである。

したがって、西側各国の政策は、中東の若者たちの、将来の見通しの不透明さや絶望について、無責任ではいられないはずだ。
そして、西側の政治的努力が失敗するとなると、かれらは反社会的行為をとおして自尊心を取り戻すために過激化してしまうだろう。
同様に、この自尊心の欠如がもたらす絶望的な心理活動は、ヨーロッパ移民の境遇にあって、孤立して、軽犯罪を犯していたような人を、ひねくれた英雄、つまり遠隔操作された殺人者に仕立てうるだろう。パリで起きた11月13日の事件はこの ケースであるようだ。

3. 9/11のテロのさい、デリダやあなたを含む、世界の知識人たちは、「戦争の恐怖」のプレッシャーによって市民の自由が制限されることを懸念しました。また、「文明の衝突」と「ならず者国家」という概念に頼ることへの警鐘を鳴らしましたね。この診断は、グアンタナモ基地の拷問の発覚などによって、現実となりました。民主国家をまもるためのテロにたいする闘いは、可能だとお思いですか?それとも、いまでもなお、再考すべきだとお考えですか?

‐‐9.11を振り返ってみると、戦争の恐怖は、アメリカの政治と精神状態を蝕んでいた。愛国者の行動は、すばやく議会に働きかけ、いまでもその影響は残っている。そして、基本的な市民の権利を傷つけた。
貿易センタービルへの攻撃にたいする、このような愚かなメンタリティは、今日においても、大へん不快なドナルド・トランプへの支持にもみられる。
あなたの質問にたいする答えはない。ただし、このような問いかけをしたい。
私たちはこのような事態にたいして反射的に、不可解な他者にむかって背を向けずに済ますことはできないのだろうか。また、「国内の敵」にたいする攻撃に訴えずに済ますことはできないのだろうか。
私はフランスが、シャルリエブド事件後におこなったような、模範を示すことを信じている。今回も、想像上の脅威にたいして嫌悪を示す必要はないのだ。
そして、本当の脅威は、もっと具体的だろう。脅威とは、市民社会が、個人の自由や、人生のありかたの多様さへの寛容さ、そして、他者の考えを理解しようとすることを犠牲にしてしまうことである。これらすべては開かれた社会における民主主義の徳目として存在している。

4.ドイツの難民受け入れにたいする積極的な態度は、テロの脅威によって変わるとおもいますか?

--そうならないことを祈る。われわれは皆、おなじ船に乗り合わせている。

テロも、難民危機も、EUがたんなる通貨協定の枠組みをこえて、より緊密な協力と団結をもって、平穏をもたらすために尽力するためのチャレンジなのである。


(翻訳・抜粋したので、読んでくださった方は、ぜひ原文を確認することをお勧めします)

ハーバーマスが提起したコミュニュケーション的行為とは、意見の対立を、理性の力によって調整することである。
このプロセスは、現在、熟議民主主義というキーワードで、日本においてもさかんに研究されているわけだが、熟議には時間がかかる。
したがって、今回、フランスが直面しているような緊急時の意思決定にはめっぽう弱い。カール・シュミットが、民主主義社会のなかで独裁を肯定するロジックにもなった。

われわれは以下のことについて考えなければならないだろう。

非常事態宣言が発令されると、政府に権力を集中させることができる。
平時は、三権分立立憲主義の理念のもと、相互に権力の暴走を抑止し合っているが、この権力の制限を弱めることができる、ということである。

したがって、間接的ではあるが、非常事態には、国民の権利を一時的に制限することができるようになるということがいえる。

政治のありかたに抗議する権利が制限されることや、憲法で禁止されている「意に反する苦役」を国民に強いるような事態がおこりうる。

自民党改憲草案には、この非常事態条項がふくまれており、そうなると、われわれも議論を始めなければならない問題である。

ハーバーマスの記事にもどると、第1の質問は「国家緊急権」の議論なのかと期待して読みはじめたが、当たり障りのないコメントでがっかりした。しかし、第3の質問にたいする答えで、しっかりとハーバーマスの考えをしめしている。やはり、期待は裏切られなかった。

われわれが直面している「脅威とは、市民社会が、個人の自由や、人生のありかたの多様さへの寛容さ、そして、他者の考えを理解しようとすることを犠牲にしてしまうことである」という一文は、さすがハーバーマスとしか言いようがない。完全に同意である。

そして、最近の欧州情勢の報道に触れて、僕自身が考えていたことでもある。

卒論も佳境をむかえ、残すところ、全体の考察を精錬し、より、アラのない結論を書く作業のみとなった。
論文では、ハーバーマスの公共性理論を扱ったこともあり、今回の記事については、合意できる点も多かったため、日本語にしてシェアしようとおもう。


ぼくは勉強ができない

一日一日はだらだらと過ぎていくのに、それがひと固まりになった毎日は、ぬるぬると滑るように通り過ぎていく。

大学の半期は、何かひとつのことに打ち込むにはあまりにも短いけれど、無益に過ごすにはとても長い。
ぼくは、ドイツ語と哲学史の勉強に、この中途半端な期間を割いたのだと思う。
勉強はそれなりに進んだが、もっと上手くやれたと思わないでもない。

前のエントリーからかなり時間が空いた。ブログというものは、一度途切れてしまうと、復帰するにはひと苦労する。
なにかの強制がない場合、ブログに限らず、ほとんどすべてのものがそうなのだろう。

6月のほとんど、ドイツ語のクラスを休んだ友達がいる。週2コマだから、8回のうち6回は来なかった。
理由を聞くと、長野県にある祖母の別荘に、ひとりで引きこもっていたのだという。勉強をしたくなくなったから、と笑いながら。

大学生がもっている自由とは「ときに海を見る自由」なのだと、ぼくの大学の付属中高の校長先生が話していたことを思い出した。

肩肘張らずに生きていこう。卒論の執筆も大学院入試の受験勉強もあるけれど、僕も夏休みは北海道に行くことにした。
昨年亡くなった祖父の故郷を訪れてみたいのだ。



消化不良

新学期が始まり、それなりに忙しく過ごしてきた。

やるべきことは目の前で山となり、また、いくつかの勉強会や読書会にも出ることになったので、いまはインプットに専念している。

そういうわけで、消化不良を引き起こしていた僕は、記事を書くことができなかった。

 

このブログは、勉強した内容のことを書くために2年前の6月に始めた。たしかにそうだったはずだ。

しかし、評判が良かったエントリーはもっぱら、昔のことを書いたり、どうでも良いことを書いた時のものばかりで、うまく活用することはできなかったというのが正直な感想である。

 

「宗教学たん」が東洋経済に投稿した記事が剽窃だった、というニュースが先月話題になった。匿名萌えキャラは、知的創造の作法を遵守するという感覚を麻痺させてしまったようだ。

近いうちに実名で、厳密なルールに則った書式のブログを開設する予定である。

それならば、このブログでは肩の力を抜いて投稿することができるだろう。

 

開設したブログのURLはここにも告知するつもりである。実名で行うブログの執筆が、人間関係を広げてくれればと願うからだ。冒頭で述べた勉強会や読書会は、おもにtwitterで知り合った学生の間で行われる。

インターネットを正しく使えば、それなりの武器になるはずだ。

桜と雪は相いれないわけじゃない

日本に帰国しました。

季節はすっかり春で、あたたかな春の風がとても心地よいです。

ここ数日はどうしてしまったのでしょうか。今日、近所の小学校では雪の中、入学式が行われていました。

 

旅行記は基本的にブログにつづると決めていたのですが、今回はFacebookで書いてきました。読者層の違いとは複雑なもので、普段は書かないようなこともFacebookでは書けてしまうようです。

じっさいの僕の人となりを知っている人のなかでも、特に仲の良い人たちは、このブログの存在を知っていますし、興味関心がかぶれば、SNSを経由してこのブログのエントリーを読んでくれていると思います。

しかし、基本的には何かしらの検索という名のフィルターを通してこのブログにたどり着いた、興味関心をおなじくする見ず知らずの人たちのほうが、読者としては多いと思います。アクセス解析をすると、それは一目瞭然です。

ゆえに、このブログでは、ぼくの現実の友達に向けて発信してもあまり興味をもってもらえないだろうな、という内容のことを書いています。

ところが、同じような内容のことを実験的にFacebookで書き込むと、長文でなおかつ、社会科学を学んだ経験がないと、読みこなすことすら苦痛であるような文章だったにもかかわらず、多くのレスポンスが返ってきて、つくづく、優秀な友人に恵まれたなと感じるのでした。

そうすると、このブログの意義が揺らいできます。ブログでは、より学術的な作法にのっとった書式で、実名を出して、本格的な言論活動を始めてみようかな、と思うようになりました。

以上のように、滞在中にいくつかの決断をしたのでブログにも書いておきましょう。

 

修士に進むことは確定した

25歳になるまでに、どう生きるかについての基本方針を決定しようと決めました。

つまり、修士論文を提出するまでに、人生をつうじてぶつかり合える問いを社会学に見いだせるかどうか、ということが焦点になります。

ユルゲン・ハーバーマスが提示した「討議倫理」というキーワードは有名ですが、これは「市民的公共性の復興」という、彼の研究者人生をつらぬく問いを、初めて提示した『公共性の構造転換』から30年後に出された『事実生と妥当性』にて議論されています。

20代後半で発した問いを60代、さらにその先まで追い求める、ということができないのならば、研究者として生きる資格がないのではないか、と思いました。

 

修士課程の間にドイツに留学する。

ゆえに修士+1年の留学ということで、25歳という期限をもうけています。

そして、ドイツの大学で学位をとるという野望はありますが、まずは語学留学を念頭に置いています。キャリア戦略としても、英語以外にもう1か国語を扱えることは、有利に働くはずですし、社会学の研究者としても、必要とされる技能だと思います。

 

まあ、そんなところです。まずは大学院入試です。9月に国立にある某国立大をひとつ受けて、来年2月に第一志望の研究科を受けます。どちらも社会学については伝統と実績あるブランド研究科ですが、どうにかなるでしょう。いや、どうにかしなければニートになってしまいますので頑張ります。これが今年、卒論以外に取り組むことです。

不憫なセザンヌ

僕はいま、ロンドンにいます。この街はつねにひどい渋滞で、日曜日の渋谷駅みたいにごちゃごちゃしています。
今日は大英博物館とナショナルアートギャラリーをまわり、それで一日が終わりました。

ゴヤルーベンスターナーやモネ、ゴッホセザンヌの絵をみました。印象派の展示室には日本人がたくさんいます。僕も例に漏れず後期印象派のポール・ゴーギャンが好きです。彼が描いた果物の絵画も3枚だけありました。

というわけでフランクフルトとロンドン、ヨーロッパ滞在中、僕はこの2つの街に行きました。他にもたくさん行ってますが、これらはある共通項でくくることができます。

つまり、フランクフルトとロンドンは、僕が大好きな社会学者のカール・マンハイムと馴染み深い街なのです。

ハンガリー生まれのマンハイムは、
苦労して、せっかくフランクフルト大学で正教授の職を得たのに、彼もまた、ユダヤ人であったばっかりに、ドイツから逃げ出すほかありませんでした。
亡命した後はロンドン大学で研究をし、1935年に出された『変革期における人間と社会』では「甲羅のない蟹」というモチーフで、ゲマインシャフト的な心の繋がりを失った人々は、とても弱く脆いことを指摘しました。
(背景に、産業構造の転換による農村から都市への人口移動、第一次大戦の賠償に起因する不景気などが挙げられる)

現実に、ヒトラーは失われた心の繋がりを、愛国心だとかユダヤ人への敵対心で、ふたたび繋ぎ合わせようと煽り、2度の正統な選挙で勝利するまでに、ドイツという国を変質させてしまいました。心の弱さが熱狂を呼び起こしたと言えます。この過程が進行しつつある時期に、マンハイムドーバー海峡を渡り、大陸から離れたこの島で、心の隙間につけ込む不正義の危険性を鋭く指摘しました。すごく格好良いです。

豊かな先進国には、生まれた時から低い階層に属し、どうあがいても上昇移動できずに社会からの疎外感を感じている人たちがたくさんいます。
こうした若い男性を狙い、兵士としてリクルートしているのがISISです。繋がりを失った心は過激思想をも受け入れてしまっているのでしょうか。「甲羅のない蟹」をゆめゆめ古い現象だと考えてはいけません。たぶん、日本にだって存在します。

労働からの/家族からの/異性からの/交友関係からの孤立によって生まれた心の隙間を埋めるために、他国の人を(ネット上での行為も含めて)攻撃する、ヘイトスピーチという犯罪行為がおおきく取りざたされたのは昨年でした。僕はマンハイムの理論を学びながら危機感を覚えました。


しかし、だからといって、僕はナショナリズムの全てを批判しません。利点や、それがあることによって楽しいこともたくさんあるからです。

弱者の最低限の生活を支えるセイフティ・ネットとしての社会保障を成り立たせているのは、他ならぬ国家ですし、それにはある程度の「私たち○○人」という感覚は必要だと思います。事実上、見ず知らずの人を同胞だという理由だけで、知らないうちに養っているわけですから。

他者の生活を思い遣ることができる動機として思いつくものは、血が繋がっているから、愛しているから、仲の良い友達だから、同じ地域に住んでいるから(?)*、同じ会社の人間だから(?)、そして、同じ国に生きるから、ではないでしょうか。
[*(?)は、2015年において当てはまるかはわからないけど、かつては当てはまっていただろうという程度の意味です]

他に思いついたら教えてください。たぶんたくさんあると思います。コメントが恥ずかしいならダイレクト・メッセージでも。

まあ、楽しい点はというと、サッカー日本代表が勝つと嬉しいですし、テレビの前で応援するのも、そこそこ楽しいです(笑)僕は人生で2度だけ酔いつぶれたことがあるのですが、そのうちの1回は、WBCの台湾戦を部活の合宿先で観ながら盛り上がりすぎたことが原因でした。

また、国境がないと、こうして旅行する楽しみも薄れてしまうと思います。自分のアイデンティティと国籍とがある部分では同定されていないと、海外旅行の楽しさが減るかもしれません。これはちょっと論旨とズレてますね。

ただ、そんなナショナリズムによって排除されてしまう集団、人がいるのならば、それは正義にかなわないな、と思いました。いま確実に言えることはそれだけです。
日本に帰ったら、今度はマンハイムとも向き合いたいと思います。

ゼミの人には話したことがあると思いますが、僕が社会学と出会った理由は、新聞記者になりたかったからです。
新聞記者になりたいと思った理由は、困っていることを誰にも伝えられずに孤独に苦しんでいる人たちや、あるいは、困っていることを誰かに伝えて境遇を改善しようという希望すら持てない人たちの声を代弁したいと思ったからです。

困っている人の声を拾い上げ、社会問題にし、現実的な解決策へと歩を進める。すべては社会学の議論へと収斂されます。これほど素晴らしく、実利的な学問がこの地球に存在するのです。ただのサブカル学かなんかだと思っている人は、ただちに認識を改めるべきです。正直、僕は人生を捧げるに値する問いが、社会学にはあるのかもしれないと思い始めています。

正義とは何かについての確からしい答えを探し求めて、僕たちは考え、討論し続けなければなりません。

みんなが考えることを放棄したら、それこそ、恐ろしいことがまた起こりますよ。もしかしたら、すでに世界のどこかでは起きているのかもしれません。いや、起きているでしょう。

樺太と同じ緯度で、日本との時差が9時間あるロンドンで、こんなことを考えました。そんな報告です。

ドイツにおける反イスラムデモについて

ドイツに来たからには、いつか遭遇すると思っていましたが、一昨日の17時から、反イスラムデモが、デュッセルドルフの街で行われました。

昼過ぎから街には警察がたくさん出てきて、物々しい雰囲気になってきました。日本人が襲われることはなかったのでしょうが、近づかないほうが得策ですので、早めに撤退して、友達の家で日本料理を作ることにしたのです。

Dügidaは、Düsseldorfの、gi=against、da=Islamとかいう意味で、愚かにも80人が参加したみたいです。
はたして、人の尊厳を踏みにじる行為をする自由は言論の自由なのでしょうか。

いつか、ゆっくり考えてみようと思いました。たぶん今の自分では、この問題についての論理的な議論ができないので。

 
 
以下のURLは、この記事を執筆するにあたって用いたデータソース(ニュース記事)です。

http://m.rp-online.de/nrw/staedte/duesseldorf/80-teilnehmer-bei-duegida-demo-und-redeverbot-fuer-dittmer-aid-1.4930957