Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

桜と雪は相いれないわけじゃない

日本に帰国しました。

季節はすっかり春で、あたたかな春の風がとても心地よいです。

ここ数日はどうしてしまったのでしょうか。今日、近所の小学校では雪の中、入学式が行われていました。

 

旅行記は基本的にブログにつづると決めていたのですが、今回はFacebookで書いてきました。読者層の違いとは複雑なもので、普段は書かないようなこともFacebookでは書けてしまうようです。

じっさいの僕の人となりを知っている人のなかでも、特に仲の良い人たちは、このブログの存在を知っていますし、興味関心がかぶれば、SNSを経由してこのブログのエントリーを読んでくれていると思います。

しかし、基本的には何かしらの検索という名のフィルターを通してこのブログにたどり着いた、興味関心をおなじくする見ず知らずの人たちのほうが、読者としては多いと思います。アクセス解析をすると、それは一目瞭然です。

ゆえに、このブログでは、ぼくの現実の友達に向けて発信してもあまり興味をもってもらえないだろうな、という内容のことを書いています。

ところが、同じような内容のことを実験的にFacebookで書き込むと、長文でなおかつ、社会科学を学んだ経験がないと、読みこなすことすら苦痛であるような文章だったにもかかわらず、多くのレスポンスが返ってきて、つくづく、優秀な友人に恵まれたなと感じるのでした。

そうすると、このブログの意義が揺らいできます。ブログでは、より学術的な作法にのっとった書式で、実名を出して、本格的な言論活動を始めてみようかな、と思うようになりました。

以上のように、滞在中にいくつかの決断をしたのでブログにも書いておきましょう。

 

修士に進むことは確定した

25歳になるまでに、どう生きるかについての基本方針を決定しようと決めました。

つまり、修士論文を提出するまでに、人生をつうじてぶつかり合える問いを社会学に見いだせるかどうか、ということが焦点になります。

ユルゲン・ハーバーマスが提示した「討議倫理」というキーワードは有名ですが、これは「市民的公共性の復興」という、彼の研究者人生をつらぬく問いを、初めて提示した『公共性の構造転換』から30年後に出された『事実生と妥当性』にて議論されています。

20代後半で発した問いを60代、さらにその先まで追い求める、ということができないのならば、研究者として生きる資格がないのではないか、と思いました。

 

修士課程の間にドイツに留学する。

ゆえに修士+1年の留学ということで、25歳という期限をもうけています。

そして、ドイツの大学で学位をとるという野望はありますが、まずは語学留学を念頭に置いています。キャリア戦略としても、英語以外にもう1か国語を扱えることは、有利に働くはずですし、社会学の研究者としても、必要とされる技能だと思います。

 

まあ、そんなところです。まずは大学院入試です。9月に国立にある某国立大をひとつ受けて、来年2月に第一志望の研究科を受けます。どちらも社会学については伝統と実績あるブランド研究科ですが、どうにかなるでしょう。いや、どうにかしなければニートになってしまいますので頑張ります。これが今年、卒論以外に取り組むことです。