Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

不憫なセザンヌ

僕はいま、ロンドンにいます。この街はつねにひどい渋滞で、日曜日の渋谷駅みたいにごちゃごちゃしています。
今日は大英博物館とナショナルアートギャラリーをまわり、それで一日が終わりました。

ゴヤルーベンスターナーやモネ、ゴッホセザンヌの絵をみました。印象派の展示室には日本人がたくさんいます。僕も例に漏れず後期印象派のポール・ゴーギャンが好きです。彼が描いた果物の絵画も3枚だけありました。

というわけでフランクフルトとロンドン、ヨーロッパ滞在中、僕はこの2つの街に行きました。他にもたくさん行ってますが、これらはある共通項でくくることができます。

つまり、フランクフルトとロンドンは、僕が大好きな社会学者のカール・マンハイムと馴染み深い街なのです。

ハンガリー生まれのマンハイムは、
苦労して、せっかくフランクフルト大学で正教授の職を得たのに、彼もまた、ユダヤ人であったばっかりに、ドイツから逃げ出すほかありませんでした。
亡命した後はロンドン大学で研究をし、1935年に出された『変革期における人間と社会』では「甲羅のない蟹」というモチーフで、ゲマインシャフト的な心の繋がりを失った人々は、とても弱く脆いことを指摘しました。
(背景に、産業構造の転換による農村から都市への人口移動、第一次大戦の賠償に起因する不景気などが挙げられる)

現実に、ヒトラーは失われた心の繋がりを、愛国心だとかユダヤ人への敵対心で、ふたたび繋ぎ合わせようと煽り、2度の正統な選挙で勝利するまでに、ドイツという国を変質させてしまいました。心の弱さが熱狂を呼び起こしたと言えます。この過程が進行しつつある時期に、マンハイムドーバー海峡を渡り、大陸から離れたこの島で、心の隙間につけ込む不正義の危険性を鋭く指摘しました。すごく格好良いです。

豊かな先進国には、生まれた時から低い階層に属し、どうあがいても上昇移動できずに社会からの疎外感を感じている人たちがたくさんいます。
こうした若い男性を狙い、兵士としてリクルートしているのがISISです。繋がりを失った心は過激思想をも受け入れてしまっているのでしょうか。「甲羅のない蟹」をゆめゆめ古い現象だと考えてはいけません。たぶん、日本にだって存在します。

労働からの/家族からの/異性からの/交友関係からの孤立によって生まれた心の隙間を埋めるために、他国の人を(ネット上での行為も含めて)攻撃する、ヘイトスピーチという犯罪行為がおおきく取りざたされたのは昨年でした。僕はマンハイムの理論を学びながら危機感を覚えました。


しかし、だからといって、僕はナショナリズムの全てを批判しません。利点や、それがあることによって楽しいこともたくさんあるからです。

弱者の最低限の生活を支えるセイフティ・ネットとしての社会保障を成り立たせているのは、他ならぬ国家ですし、それにはある程度の「私たち○○人」という感覚は必要だと思います。事実上、見ず知らずの人を同胞だという理由だけで、知らないうちに養っているわけですから。

他者の生活を思い遣ることができる動機として思いつくものは、血が繋がっているから、愛しているから、仲の良い友達だから、同じ地域に住んでいるから(?)*、同じ会社の人間だから(?)、そして、同じ国に生きるから、ではないでしょうか。
[*(?)は、2015年において当てはまるかはわからないけど、かつては当てはまっていただろうという程度の意味です]

他に思いついたら教えてください。たぶんたくさんあると思います。コメントが恥ずかしいならダイレクト・メッセージでも。

まあ、楽しい点はというと、サッカー日本代表が勝つと嬉しいですし、テレビの前で応援するのも、そこそこ楽しいです(笑)僕は人生で2度だけ酔いつぶれたことがあるのですが、そのうちの1回は、WBCの台湾戦を部活の合宿先で観ながら盛り上がりすぎたことが原因でした。

また、国境がないと、こうして旅行する楽しみも薄れてしまうと思います。自分のアイデンティティと国籍とがある部分では同定されていないと、海外旅行の楽しさが減るかもしれません。これはちょっと論旨とズレてますね。

ただ、そんなナショナリズムによって排除されてしまう集団、人がいるのならば、それは正義にかなわないな、と思いました。いま確実に言えることはそれだけです。
日本に帰ったら、今度はマンハイムとも向き合いたいと思います。

ゼミの人には話したことがあると思いますが、僕が社会学と出会った理由は、新聞記者になりたかったからです。
新聞記者になりたいと思った理由は、困っていることを誰にも伝えられずに孤独に苦しんでいる人たちや、あるいは、困っていることを誰かに伝えて境遇を改善しようという希望すら持てない人たちの声を代弁したいと思ったからです。

困っている人の声を拾い上げ、社会問題にし、現実的な解決策へと歩を進める。すべては社会学の議論へと収斂されます。これほど素晴らしく、実利的な学問がこの地球に存在するのです。ただのサブカル学かなんかだと思っている人は、ただちに認識を改めるべきです。正直、僕は人生を捧げるに値する問いが、社会学にはあるのかもしれないと思い始めています。

正義とは何かについての確からしい答えを探し求めて、僕たちは考え、討論し続けなければなりません。

みんなが考えることを放棄したら、それこそ、恐ろしいことがまた起こりますよ。もしかしたら、すでに世界のどこかでは起きているのかもしれません。いや、起きているでしょう。

樺太と同じ緯度で、日本との時差が9時間あるロンドンで、こんなことを考えました。そんな報告です。