Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

書くということ

最近、出かけるたびに古本屋で岩波の新書を2、3冊買うことにしている。
できるだけ役に立たなそうなテーマを選んで。
 
そんなこんなで、読むべき本は僕の目の前に山となり、テスト勉強があまり捗らないまま今学期を終えようとしている。
それでも、社会学の学説にかんする知識はこの2年でそれなりに頭に入れてきたので、勉強してないわりには出来が良い。
 
授業だけは最前列で受けているし、毎時間、何か一つのことだけでも得ようと必死にノートをとっているからかもしれない。
 
つまり、僕にとっての価値は授業で蓄える無駄知識であり、単位の取得ではない。
 
そんなわけで、僕が所属団体からの承認を意味する単位を取得するためだけに、解答用紙に書く論述文は、学問的にも文学的にも何の価値もない。
 
 
2014年の前半は「価値のある文章」あまり書けなかったなと思う。
 
川端康成谷崎潤一郎など、大正時代の文豪たちは、小説の執筆前のウォーミング・アップとして恋文を書いたそうだが、平成の僕は、好きな女の子に送信するメールくらいしか頭を回転させて書かないし、それすらも、下手をすると同じ言葉の使い回しになる可能性を秘めている。
 
今期は若者言葉について考察した。
自分なりに3つの特徴を発見した。
1)言葉を短く、単純化し、2)直接的な言い回しを避け、3)既存の言葉の意味を拡張して用いる。
上記の特徴を備えた、そんな決めゼリフでコミュニケーションが薄っぺらくなっていく。「ワンチャン」「それな」ってなんだ、会話しろよ(!)
 
だからLINEが嫌いなのだ。Twitterもそのような使い方はしない。あくまで自分の発信のためである。
携帯電話を投げ捨てて、豊かな言葉の世界に飛び込みたい。
 
しかし、学問の世界は必ずしも、美しき言葉の世界ではない。
 
昨年のゼミの指導教官はアカデミック・ライティングにとても厳しかった。
 
文体にこだわっていた僕が提出したレポートを添削してもらった。それは背景が真っ赤に染まったワードファイルだった。
学術論文に難しい表現や漢字はいらない。また、美しい名文もいらない。徹底的に読みやすさを優先させよ。社会学の概念はやたらと漢字が多い。ひらがなを使うと不自然になる表現でない限り、ひらがなを用いよ。
 
学術論文は美しさを排除した、学問的に価値のある文章でなければならない。 
先週、とある大学院の研究室訪問も含めた説明会に行ったが、このアカデミックライティングは徹底的にカリキュラムに組み込まれているらしかった。
その訓練は進学してからも続くし、これからも磨かなくてはならない。
 
「ボクの文章、頻繁に高校の現代文に使われるんだ。たぶん悪文なんだろうね」とある先生は授業で言った。
「学部と修士くらいまでは、まだまだインプットの時期だから、専門に閉じこもらずにいろいろなことを勉強したほうがいいよ」とアドバイスも。
 
文体にこだわるのは好きだが、読みやすさを追求することも必要だ。
 
これまで、このブログで52もの記事を書いた。飽きっぽい僕にしては続いているほうだと思う。
 
徹底的に読みやすい文章を書く、そういうことにも使えるかもしれない。
自分の主張を相手に分かりやすく伝える努力は、発信者として最低限の礼儀ではないだろうか。