何がかれを旅に駆り立てたのか
生活において静と動があるのならば今年は間違いなく「静」の年だ。
元来ぼくは旅に出ることが好きで、中学くらいまでは「国際派」的な人間になりたいと漠然と思っていた。
人生の中で一番興味が形成されやすい時期に、両親が何度か海外旅行に連れていってくれたこと以外、理由としては考えられないのだけれども。
とにかく、昨年は大学生という暇な身分になれたことを利用して何度も旅に出た。国境の南に、太陽の西へ…といった具合に。
そこでいわば世界の共通語である英語を非英語圏の人々と共有できたことが誇りに思えたことがなんだか新鮮な体験だった。
英語を多少なりとも話せるということが国際社会における一種の「最低限のコミュニティ加入の条件」であり、
イスラム圏におけるアッラーに対する敬意、または日本より北に位置する将軍の国の将軍様に対する敬意、あるいは高度に資本主義化された先進社会ではカネがこれにあたる。
東京での生活は刺激と魅力の大洪水でいつでも僕らを飲み込もうとするが、カネがないと何もできない。コーヒー1杯さえ飲めなければ、場合によってはトイレにもいけない。末は無縁仏である。
そんな英語が僕の母国では中学校から教わることになっている。
遅くないか?といつも思う。
中高で六年間。読み書きはカバーできるとしても、「話す」がなかなか難しいように思える。
他方で小学校から英語教育が始まるとなると、日本語の習得に悪影響が云々の問題がよく挙げられる。
確かに言語の消滅は文化の消滅に等しい。
夏目漱石の文体の独自性、なんとなく諧謔な感じは日本語を母語にする人にしか理解できないと思うし、同様にヘミングウェーの物語でも、散りばめられたメッセージを歴史と照らし合わせたメタファーを介して理解することはできても、文体そのものを詩的に味わうことは、英語圏で育たぬ限り至難の技であろう。
仮にバイロンの「ドン・ジュアン」を原文のまま読める英語力が僕に備わっていたとしても、ジュアンの人生遍歴に、かれのその道にならない恋に、純愛、忍耐、勇気、博愛の様相を汲み取ることはできずに、ただ単語の意味を機械的に訳すことしかできないように!
英米文学や独文などの外国語文学を専攻している人は僕にとっては異次元の存在でし、真面目にやっているとしたらもはや畏怖の対象だ。
戦時中の敵国研究でもない限り、(そして当該国の文学者がとっくにやっていることは自明であるにもかかわらず)外国の文学を外国人として研究するということは、とてつもないことだし、ある意味では余程の動機がないと成り立たないと思う。
独文科の友人がドイツに留学することになった。
彼との親交は高2のドイツ語のクラスで席が隣だったことが始まりで、
大学も同じで、共に国境を越え、太陽の向こう側を目指し東名高速道路を駆け抜けた。そんな彼がドイツのボンに一年間留学することになったのだ。
Bonn ベートーヴェンの街!(ことに「皇帝」が好きだ!ナポレオンが成した絶対王政の専制からの人民の解放、ロマン主義へ通じた道。その心の高ぶりは、音楽でしか1789年のものを2013年までかくも鮮明に残せないはずだ!)
日ごろから、ちゃんとした目的があるのかすら曖昧で、留学先からFacebookに投稿する写真は日本人とのものばかり……という「長期旅行的」留学には何だか(嫉妬も入り混じった)嫌な感情しか抱いていなかったので、本気(?)の留学に敬意を払いつつ僕も時間が許せば訪問したいと考えている。
今年は「静」の一年だが、来年は「動」になりそうだ。