金曜の宵に大学の図書館で書いたこと
時代で最大の権威を誇る「知」というものは節目節目で塗り替えられ、再解釈されるものだ。
宗教とその周辺の歴史なんてそれの最たる例であり、中世(ここでは、人々が神とかあの世とかそういう超自然的なものを公然と信じ、人生における決断の主体を自分じゃなくて宗教や慣習に委ねてた時代のことを中世と定義する、というか僕がそう理解している。)の常識は本当にごく僅かしか今の僕たちの常識に残っていない。
おそらく、本気でこの予言を信じていた人はいたはずだ。
否、そもそもいなかったら、僕がいまハマっている宗教社会学なんてモノもデュルケムのトーテミズム論で終わって、宗教はもっぱら文化人類学の守備範囲になっているだろう。
そんな、「1914年の終末」を本気で信じた当時のエホバの証人の人たちにとって、天地がひっくり返るような出来事だったことは想像に難くないわけで、
人間が人間たりえる為の理性を、スピリット(ワタミが好きなアレです)とアタマ(知性)とハート(感情)に分けられるとすると、
情緒から侵入して、知性にまで変革をきたすものが、熱狂的な信仰であると僕は考えている。
だからこそ、信仰がその人の世界の秩序になるのだ。
現代の宗教的ともいえる科学信仰が、一同に僕らを裏切って、原発は津波で壊れ、ジャンボ・ジェットは細微な部位の整備不良で墜落するような事態がそのようなものだろう。
テレビ・ニュースはいつまで経ってもその報道に明け暮れ、金曜ロードショーは取りやめになる。
もうひとつ。
民主主義だって、誰も今の制度が完璧なものだとは思ってはいけないだろう。
他方で、民主主義とは人間として生まれたのならば、当然与えられるべき最低限の環境である、というのが、冷戦や結果としての共産主義国家の崩壊を経て得た教訓、という解釈が21世紀の社会について考えて行く為の前提に一番ふさわしいもので、
反対に、今は間違っていると見なされているものも、いつかは時代最高の「知」になるのかもしれない。
だからどんなに突拍子もないことでも、誤りだとは一概に言い切れない。
だからこそ、言論の自由は守られるべきであるし、少数派の意見も尊重されるべきなのだ。
というのが今日の一応の着地点。
言論の自由は守られるべき。
これは疑いようもなく絶対に正しいことだけれども、その根拠を考えている人は少ない。
けれども、これまで書いて来たように、何が本当に正しいのかは、誰も分からないのだからこそ、
常識の下に潜ってあれこれ考えることは、程度の差こそあれ必要なことなのだ。
以上、社会学的な視座からの言論統制への批判でした〜