魯迅と愛国
テストは先週で終わり、残りのレポート二本も出したので、僕にも夏休みが来ることになった。
テスト期間を通して味気ない論文スタイルの学術的な文章は読み飽きたので、魯迅全集を読み進め、国家とアイデンティティについて考えていた。
魯迅を読んで国家について考える人はそうそういない気がするけど。
医者になるため中国から日本に留学しにきた男
日本から外国としての祖国を見つめた男
中国には心の変革が必要だと痛感した男
心の変革には文学だと、医者ではなく作家になった男
何というか、本当の愛国者という印象を受ける。
中国の心の変革云々で文章を書くようになったエピソードが高校生の僕の心を掴んだのだ。
近代とは個人主義の時代のことだ。
自分の生き方は宗教や慣習によって決められるのではなく、自分で全て好きに決められる。
それでも、大方はすでに定まった選択肢しか与えられていないのではないだろうか。
いくら個人主義と言っても、結局アイデンティティというものは自分が所属する集団によって規定されている。
(例えば僕たちが自己紹介をする時は、大抵の場合名前と共に大学名を名乗るだろう)
だからこそ自分探しの旅は、自己に絡まった所属を振るい落とし、断ち切るのごとく日常から逃げ出すのかもしれない。
それでも自分自身に染み込んだ、アイデンティティというものはどこまで「自分独自」なものなのだろう。
テスト期間は魯迅を読んで、そんなことを考えていたのだ。
上記の集団意識は
彼らは人間をコミュニティから切り離すことはできず、
コミュニティによって「自分」が形成されていると主張する。
確かに20世紀前半、アメリカのギャングは移民としてアメリカにやってきた親と、典型的アメリカ人(WASPがモデル)を作り出そうとする学校との板挟み、という葛藤への対処として非行に奔ると社会学は分析してきた。
コミュニティが人間形成に一役買うという議論も一理あると言えるだろう。
それでは僕は日本の学校教育によって、典型的日本人に育てられたのだろうか。
日本人的日本人の僕はドイツで電車に乗り込む人々が列を作らないのを見てひどく違和感を覚えた。
そればかりではない。
体育の授業カリキュラムで最初に行われる、行進や「右向け、右!」等の号令に従う動きは、運動会のような行事の便宜の為だけではなくて、軍国主義的なもの、あるいは軍隊を構成する一員となるための最も基本的な訓練なのではないだろうか。
日本に生まれた時点で、身につけることになっている規範やモラルは、それが意図されるものと意図せざるものとの隔たりなく、自分を形成する大事な要素である。
そう言った意味で僕は日本を背負って生きているし、
それに関するメリットもデメリットも享受して生きるのだ。
愛国とは、朝鮮や中国などのセンセーショナルな問題を共有する隣国に対して、高圧的に出ることでなければ、憲法を再解釈し、自衛隊をより強くし、比較的積極的な交戦権を持つことでもない。
「愛国」とは自国の歴史、文化、風土をより良く理解し、自分がそれを背負っている事を意識することだと少なくとも僕は考えている。
そんなテスト期間。
テストはもちろんできなかった。
ただひとつ衝撃だったのは宗教社会学の試験で、池田大作の「人間革命」の主人公の名を問われたことだ。
創価学会員でも何でもない僕が恥をしのんでブックオフで立ち読みした成果が思いもよらぬところに来た。