Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

モダニティあるいは共通知不在の世界

僕はあと数日、一週間足らずで二十歳になる。

 
20世紀の終わりの7年と、21世紀のはじめを生きてきた。昭和は知らない。
 
毎年、僕の誕生日近くになると戦争関連の特別番組がテレビで数多く流され、
僕は小学校の夏休みの昼下がり、いつもこのような番組を見ていた。
 
要するに、日本人の共通体験である(あるいは、かつては共通体験だった)戦争や敗戦という記憶を、
知らず知らずの間に、大量発信、受け手は非限定のメディアであるテレビによって僕も類似体験していた、ということになる。
 
共通体験とは何だろうか。
 
かつては戦争がそうだ。僕のじいちゃんは事あるごとに戦争の話をしたがる。
 
僕らの親世代にとってはひょっとしたらバブル経済の体験かもしれない。
父親の就職活動の話を聞くと仄かに嫉妬を覚える。
 
翻って僕たちの世代に、これからの日本に、共通なる知は存在し得るのだろうか。
 
例えば、中国の文化大革命期の紅衛兵たちは皆、揃いも揃って「毛沢東語録」を読んでいたし、
それを毛沢東の前で(おそらく敬礼の代わりに)一同が掲げる姿を写した写真は有名である。
 
彼らにとっては、毛沢東の種種の
発言が共通知であり、おそらく雑談にも使えただろう。
 
例が飛躍し過ぎたかもしれない。
 
何も経済とか政治の話をしたいわけではなく、もっと日常レヴェルで論を展開したい。
 
僕たちの今生きている世界は、いささか趣味や興味が細分化され過ぎていて初対面の人との会話には何を話せば良いのか分からない。
 
でもそれは当然のことで、グローバリゼーションによって人とモノと情報とが世界を行き交い、産業化の恩恵が広く開かれているいま、市井の人間にだって何でもできる。日曜日が何日あったって足りないほどだ。
 
趣味の「映画鑑賞」ひとつ取ったって、僕はいわゆる自然主義的な歴史を映すヨーロッパの映画は良く観るが、
それだといかにもアメリカ的なハリウッド映画が好きだ、とかいう女の子とは「映画」という共通項を持っているにも関わらず、あまり楽しくは話せない。
 
ハリウッド映画は娯楽の点では確かに優れていると言える。
 
それはアメリカの歴史を考えればわかる事だが、 アメリカ人にとっての映画は、非英語圏からの移民の為に作られた娯楽なのだ。
 
明確な善、明確な悪、明確な困難、明確な解決、そしてハッピーエンド・・・極論、英語が解せなくても楽しめるものだと言えよう。
 
だからハリウッド映画は、
ヤンキー漫画が文化的でなく、品がないように、あまり文化的ではないように思える。
 
趣味の会話はなかなか難しいのものだ。
 
 
それでも、ひとつは僕たちの共通知を挙げられる。
それは一昨年の地震だ。
 
わりにこの話は雑談に使える。
その日僕は高校の陸上トラックの上にいた、という極めて安全で面白味の無いエピソードしか有していないが、
不気味な緊急地震速報の不協和音と、繰り返しテレビ・ニュースによって放映された津波の映像は、 
 
必ずや日本人の民族(語弊があるかもしれないが)全体の共通体験になり、あの不協和音は日本人が無条件に穏やかでない気持ちになるような、ある種の恐怖心としてDNAに組み込まれることになるだろう、
また津波に関しても今後は、かなり敏感な国民性が構築されていくはずだ。
 
これは集合的記憶だ。記憶とは元来、とても個人的なものだろう。
 
しかし集合的記憶は同時代の人が同じ記憶を胸に成長し、社会を形づくることのきっかけにもなる。
要するに個人を社会に結びつけてくれる存在なのである。
 
だからこそ、共通の記憶(集合的記憶)は日本をもっと理解することにも繋がる。
 
 
それと、ひとつの学問領域に限ってみても共通知は存在するだろう。
宗教社会学ならマックス・ウェーバーの「プロ倫」を読まない事には始まらないし、少なくともそのロジックは皆が理解している。
 
都市社会学が主専攻である人なら、シカゴ・モノグラフのいずれかを一冊は読んでいるはずである。
 
でもそれだけだ。
僕は「傷害」と「暴行」の法的な違いは知っていても、さらに専門的なことはてんで分からない。
 
みんなが専門バカなのだ。
 
僕はそういうのが厭だ。
漠然とただ厭なので、リベラル・アーツ的発想から幅広い教養をもつ、おもしろいニンゲンになりたいと常日頃思っているのだが、如何せん時間が足りない。
 
だから就職活動はせずに大学院に進みたいと考えている。