Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

「書く」ということについて

書くということについて、このブログで書くにあたって、
このブログの暫定的なタイトルについて話そうと思う。

「モンブラン320とキイボード」
これがタイトルである。

モンブラン320について、

モンブランはドイツの筆記具メーカーで、とにかく僕の憧れだったわけだが、
祖父が二十歳のお祝いに僕にモンブランの万年筆を贈ってくれた。
もちろん彼のお下がりで、
それこそが「モンブラン320」なのだ。

1970年に発売された物であり、僕より20年ちょっと年上である。

祖父から貰った憧れのモンブラン、両義性はなく、
ただ僕にとって「ものを書く」ことの象徴なだけだ。

一方で、キイボードは
疑問の余地なくみんなの知るキーボードである。パソコンで文字を書くのだ。携帯電話でもいいし、iPhoneでもいい。
表記については、
谷川俊太郎なら彼の詩のなかで、キーボードを「キイボード」と書き記すだろう。(勝手なイメージだけど)
僕はその表現が気に入っている。
想像のなかの詩の言葉だけどね。

つまり、ペンで書いた文字であれ、キーボードで打ち込んだ文字であれ、書くことがこのブログの目的であり、その理由は幾つか考えられる。

ひとつは、書くことで自分の頭の中にあるアイディアをしっかりと固め、纏めることができるからだろう。
これは様々な人が考えることで、大学受験のための世界史は、記述問題を解きまくる、という試験対策まであるほどだ。

もうひとつは、書くことで、自分の考えをどこかに保存でき、しかも可視化することができるようになる点である。

いわば、書くことで、安心して次のことを考えることができるのだ。

故に書きたいことがたくさんあっても、まだまだ練り直す必要がある場合はブログに書けない。

そういうわけで、八月は
ショーペンハウエルの教えに従い、
「人生の時間には限りがあるのだから、無駄な努力を避けるために、時の洗礼を受けてない小説は読まない」の精神で、
アメリカの古典を読み漁っていた。

古典と言っても、いささか新しく、
ヘミングウェイやスタインベック、フィツジェラルド、などの20世紀前半、パクス・アメリカーナ形成の輝きを増し続けた時期の作品であり、その時代背景で「ロスト・ジェネレーション」が生まれたのは興味深い。

経済発展と人間の豊かさについて考えるが、議論し尽くされたテーマかもしれない。

そういうわけで、
これから考えを纏め、ブログにその考えた痕跡を残したくなるようなテーマがたくさん見つかった。

2013年8月はそういうことをしていたのだ。