ブエノスアイレス午前零時
首都圏に住まうひとりの市民として嬉しいニュースがある。
2020年の夏季オリンピックのホストとして東京が正式に決定された。
世の中に流布している言葉を使うとすると、招致レースはイスタンブル、マドリード、東京の三都市によってなされた。
イスタンブルは4世紀前半、コンスタンツ帝にちなんで建てられた都市で、ローマ帝国が東西に分かれたときは東のビザンツ帝国の首都であり、現在のようにトルコ人の手に渡ったのは1453年、メフメト2世のオスマン帝国が占領してからで、イスタンブルという名はこの時から広がった。
――世界史の知識で語ってみた。
宗教的にみてもおもしろい都市であると言える。
コンスタンツ帝はキリスト教を公認したかなり有名な皇帝で、その一方で東ローマ帝国時代はギリシア正教であっただろうし、こんにちに至るまでそこにいるオスマン帝国そしてトルコはイスラム文化圏の国である。
そして地理・文化的にも。
アジアとヨーロッパの境目に位置するだけではなく、黒海文化圏と地中海文化圏の要となる場所でもあった。
そして、未だイスラム圏ではオリンピックが開催されたことがない。
だからこそ、どちらがホストになっても僕としては、喜ばしいことだった。
マドリードははじめからそこで行うことに対して懐疑的だったのでここでは触れない。(案の定最終投票までに脱落したが)
その中で東京が選ばれたということで、二つのことが言えるとぼくは考える。
ひとつは原発事故、放射線の恐怖というデメリットに対して、日本の技術が十分対処しうるという評価が国際的に下されているということ。
もうひとつは、いくら経済成長が停滞し元気がなくても、著しく経済が安定していてオリンピックを主催することに必要な負担に耐えうる、という世界からの目線の存在だ。
この国は多くの問題を抱えてはいるけれども、他国に誇れるものも数多くある。
他方、オリンピックに関しては違った見方もできる。
経済発展の触媒としての効果があることだ。
1964年、敗戦から19年後にこの国を元気にしたように、イスタンブルがオリンピックによって発展することは、世界的にもかなりプラスであると考えていたが、蓋を開けてみると、東京の圧勝であった。
こういうところも、IOCの考えとしてまずは大会の健全な運営であり、
このことが21世紀、相も変わらずこの世界のヘゲモニーはキャピタリズム的思考であると暗に示しているのかもしれない。
ジャーナリズムを志す学生としては、やはりこのイベントをただ喜ばしく思うだけではなく、それに伴う社会的病理(開催準備における労働環境、文化、都市の問題等、枚挙に暇がない)にも批判的に論じていきたい。
とにかく、おめでたいことであるのは間違いなく、
その瞬間に立ち会えたことが、僕の日本人としての集合的記憶になったことも確実であろう。ひとつの日本人としてのアイデンティティ形成の瞬間。
ありがたい、本当にありがたいね!