決められた範囲内で最大限はみ出る
「普通ってなんだと思う?」
最近、僕は教員を目指しているという知人にはわりかしよくこのような質問をぶつける。
なぜならば、学校の先生ほどこの「普通」のもつジレンマに悩まされる人はいないはずだからだ。
公教育は教員に普通の典型的日本人を作り出すことを要求する。
これだとあまりにも言い方が冷たいが、
ひとつの基準に基づいたカリキュラムをこなし、
一定の道徳的価値観の共有を要求する。
これらはすべて普通という枠組みを押し付けることではないのか。
しかしよく考えてみると「普通」という枠組みを作ることは
同時に「普通じゃない」を作り出すことでもある。
福祉制度が弱者を定義し作り出すのと同じだ。
生活保護受給の基準があるから明確な貧者の線引きが行われている。
あたりまえだけど、いじめの対象は「普通じゃない」に当て嵌まるタイプの子供だ。
均質性を脅かす存在は排除されて当然である。
なにも小学校・中学校の生徒に限った話ではなく
地価や家賃などの要因によって同質な人が集まる新興住宅地、あるいは団地の住人にも
隣人たちと違うことをしてしまうことを極度に恐れてしまう傾向があるそうだ。
だからこそ、これから先生を目指す学友たちには
ゆめゆめ「普通は~~」なんて言葉を使ってほしくないし、
寧ろ関わる人の数だけ「普通」があることを説いてほしいのだ。
現実、普通とは何なのか、誰もその答えがわからないくせに、
このフツウは慣習とか常識に姿を変えて僕たちに物理的な力を行使してくる。
こういった点では、ある種の社会的事実であり
1940年代前半の若者が戦争に運命を変えられたように、
自分の力ではどうしようもなく、ただ受け入れ、その中で最大限上手くやっていくほかない性質のものなのだろう。
でも僕が一番してはいけないと思っていることは以下の通りである。
平均的な立教大生がそこそこ真面目に就職活動して入れる会社に、僕も当たり前のように入社しさして理想でもない仕事をこなすことである。
理由は単純、僕がそれをしたくないからだ。
それを一生懸命にやっている人を批判するほど僕は人間として卑しくないけれども、
正直なところ大学生が就活!!と騒ぐこと自体大嫌いなのも事実だ。
しかしながら就職しないわけにはいかないし、そんなことしたら社会的な立ち位置がそうとう危うい。
結婚も、住宅ローンも、何もかも雲行きが怪しい人生なんぞ真っ平御免である。
それはそれで怖いのだ。
常識の範囲内でできる限り社会に抗って生きていこう。
それが自分なりの結論である。
自由に生きるには努力が必要だ。
アラビア語でもドイツ語でも自分なりに身に着けようと奮闘している。古典も読んでいる。とにかく今は教養を身に着けたいのだ。
それもディケンズの「大いなる遺産」を読んでいる人に「気の毒なピップの悲惨な人生」なんて気の利いた一言を掛けられるような教養だ。
それゆえ、それなりに忙しい。