世俗化とインド・カリー
ただ起こったことを羅列するタイプのブログもたまには書いてみようと思う。
【日曜日】
高校時代の友人たちとインドカレーを食べに行った。
「パンジャビ」という当時から馴染みの店である。その名前からはパンジャーブ地方を思い浮かべるのだが、この地域の人はシク教の人が多い。外見の特徴は戒律によって髪を切ることができないので男性でも長髪、頭にターバンを巻いている。「典型的インド人」のイメージの源泉と言えるだろう。
しかし彼らはインドの全人口でいうと2パーセントほどしかいない。
それにもかかわらず、我々がインド人=シク教徒の外見、と考えてしまうのは植民地時代の宗主国の都合が介在している。
エゲレスである。UK,大英帝国、グレート・ブリテン。
植民地化にも激しく抵抗したシク教徒の人たちは勇敢だ。(またしても戒律によって男性は今でも帯刀が義務付けられているくらいだから勇敢なのだろう)イギリス統治下に入った時も、独立した時も軍人や警察官になった者が多い。
つまり、軍人として海外の人の目に触れることが多かった「インド人」がシク教徒なだけであって、一般的なインド人は違う。ターバンなんか巻いていない。「パンジャビ」のやけにボソボソと日本語を話す店員も油を塗って横になでつけたような髪型である。
それでも「パンジャビ」なんて店名にしたのだからパンジャーブ地方にゆかりのある人なことは十分にあり得ることだし、シク教徒である可能性が高いのは事実だろう。
確かめる方法がひとつある。それも単純。
名前を聞けばいいのだ。シク教徒の苗字は必ず「シン」だからである。
「あなたの信仰は?」と聞くのは日本ではあまり普通ではない。というか大抵の場合忌避される行為かもしれない。でも名前を聞くくらいなら、常連客になった場合のみ失礼ではない。
もっとも、定価による金銭取引によって「心のやり取り」を省略することが可能になった近代資本主義社会においては、接客は画一化されマニュアル通り微笑み、マニュアル通りの温かい言葉を投げかける。必ずしも人間的な繋がりは必要じゃなくなった。
コンビニバイトのA君はたとえ友達が買い物に来ても勝手に値引きすることはできない。そのような社会ではウェイトレスの名前を聞くこと自体不自然なのかもしれない。
故に平成のレストランでラヴ・ストーリーは生まれない。
シャッター通りが社会問題化しているが、地域に根付いた生活をしているお年寄り以外の人々が「顔見知り社会」の個人商店を避け、スーパー・マーケットに行くのも納得できる。
商取引に人情が付け加えられると、よそ者からはひどく排他的に感じられるからだ。
この「排他性」は商店街が衰退した理由に挙げられる。
つまり個人商店は例外なのかもしれない。
やっぱり高校時代もっと通っておいて、顔を憶えてもらえば良かったなと今更少し後悔している。
外国人だからという理由で宗教や名前などそのバック・グラウンドに
興味を持ち、不躾にもだらだらと考察するのは、グローバル・シティ・トーキョー圏に住まういち現代市民として不適切な態度かもしれない。
違うのだ。 宗教社会学を学ぶひとりの学生として、これは「インドの宗教の世俗化」について考察するための大事なフィールド・ワークなのだという認識を持っていることも併せて書かないと傲慢な感じがするので最後に記しておきたい。
P.S
ムスリムが豚肉を食べていたので「いいのか?」と訊いたところ、「ここは日本だ。アッラーはいないぜ」的な返答をしたという文章を何かで読んだことがある。
宗教の世俗化は文化が消え失せたり、それによって生活に支障をきたさない場合のみ歓迎されることなのではないか。