Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

芸術は思想ほど風化しない

起こったこと羅列型日記の続きです。

友人のひとりに感想を聞いたらもっと更新したほうがいいよと言われたので、こんな感じでエントリー数を稼ぐつもりです。

 

【月曜日】

祝日だった。彼岸の中日である。

秋分の日でポロシャツ一枚では鳥肌が立ちそうな一日。北風が吹いて、終始曇っていたからだ。

 日本人が古来から親しんできた「節気」で季節の変わり目とされる日に付けられる名前は不思議なくらい秀逸なものが多く、

八月下旬の「処暑」の日以降は本当に風が冷たく心地よくなった。

異常気象でもなんでもこれはゆるがないと思うと、第二次産業革命の恩恵が一般に広く行き渡る以前の人々が、いかに自然と密接な暮らしをしていたかがうかがい知れる。

 とにかく秋分の日は、久しぶりのデートとして東京都美術館に行ってきた。

企画展示「ルーブル美術館展~地中海四千年のものがたり~」が最終日だったので二人で足を運ぶことにしたのだ。

 

予想通り上野駅は大混雑。

彼女が30分遅れたので、駅という公共空間を商業スペースにする試みがいかにも高度資本主義社会の産物の「エキュート上野」を5周した。(回廊式である)

歩きながらナット・キング・コールの「Smile」を22回くらいリピートで聞いた。(作詞はチャップリン。フォードの考案したベルトコンベアを用いた単純で完全分業の工場労働を、マルクス的にいうと「疎外」だと批判し警鐘を鳴らしたチャップリン。彼の有名な映画「モダン・タイムス」の主題歌だ)

最後に紀伊国屋でグレープジュースを買って飲んだ。(これは資本主義の味はしなかった)

言っておくけど文句はないのだ。申し訳なさそうにひょこひょこと待ち合わせ場所に現れる様は筆舌に尽くしがたく可愛らしい。それゆえ毎回待ってもいいかなと感じるほどだ。これは惚気ではない。ロマン主義的な日常描写である。

 

そうこうしているうちに合流。

園内はミドル・クラス風の家族連れであふれていた。みんなパンダを見に来たのだろう。

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ちなみにリーリーとシンシン、震災直前に上野動物園にやって来たこの二頭は日本政府が中国から十年間八億円契約で借りている。八億円、一年で8000万円である、高いのか安いのかはパンダ賃貸の相場に明るくないのでわからないが、(プロ野球の助っ人外国人相場だとバレンティンと同程度)ともかく、このパンダは日中友好の象徴らしい。

ということはバレンティンはホームランをたくさん打ったから日本とオランダの友好のシンボルたりえるのだろうか、あるいはそうかもしれないなと思う。

しかし彼の場合、オランダ領のカリブ海にある島の出身なので、アイデンティティと植民地の問題も浮かんでくる。でも今日は書きたいことが他にある。また今度書きたい。

バレンティンをパンダと同様に扱うのはエスノセントリズム的傲慢さの表れではないか、あるいはそうかもしれない。少しは反省したほうがいいかもね。

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脇道に逸れすぎたので軌道修正。

たまに書いても何の意味もない文章を書き散らしたくなる。

でもとにかく、まじめに書きたいテーマがあるのだ。

だから夕食後の眠い時間にキーボードをぱちぱち叩いている。

 

――ルーブル美術館。言わずと知れたフランスの著名な美術館である。

そこから200点を超える作品を借りてきて東京で展示していた。

ロゼッタストーンハンムラビ法典をはじめとした古代エジプトやアッシリアなど膨大なオリエント世界のコレクションも有名だ。また「サモトラトのニケ」などの地中海文明の遺物も。

 

ぼくにはこの素晴らしいコレクションを誇る旧植民地宗主国の博物館や美術館が「帝国主義の遺物」であるように感じられた。二度の大戦の惨禍を経ていまなお生き続けるコロニアリズムの無反省な残党だ。

 

そもそも博物館は国力誇示のために多くの場合王立で作られたという歴史がある。植民地のものを展示することで、「こんな風土や歴史を持つ未開の野蛮人たちをおれたちは征服したのだ!」といった具合に。

 近世の王族の持ち物に記された文様は怪物が描かれたものが多いらしい。体がライオンで顔が人間の女性や有名どころだと人魚などだ。

古来からオリエントには怪物がいるとヨーロッパの人々は信じてきた。そして海もまた未知の領域で怪物の住むところとされてきた。

そして大航海時代を経て、現実にその場に行けるようになるとそれら「未知」への支配と領有が始まるのだ。

王族が好んだ怪物の文様は、未知なるものをも支配する輝かしき王国を強調するためであろう。

 

こういったテーマに興味がある人は若桑みどり「イメージの歴史」がお勧めだ。記念碑的作品である。

とにかく、世界史を好んで学んできた自分にとっては興奮の連続であった。イコン論争の頃に作られた本物の聖母子画には卒倒しそうなほど興奮した。


でもやっぱり違うな、と思う。サモトラトのニケについてはギリシア政府の返還の要請に応じるべきだし、ロゼッタ・ストーンもエジプトに返還するべきである。

日本で生まれ育った僕にはいささか突拍子もない話だが、他国の歴史を領有するなんて間違っているからだ。

 帝国主義の反省が謳われて半世紀と20年弱、今なお美しき古代の芸術的創造物を領有するのは支配した側である。

 

数年前エジプトの暴動で博物館が破壊され多くの史料を失った事態も起きたが、どこの国も博物館を維持し、それそれの国民がそこから学べるほどの教養を持てる世界になれば、ポスト・コロニアリズムとかいう問題も解決するだろう。

 

でもまあ、これはあまりに空想的すぎる。それは認めよう。

現実の世界に渦巻く構造的暴力、不条理、しがらみをてんで考慮してないに等しいし、僕自身勉強不足で知らないことも多い。

それでも日本の知識人は上記の批判を恐れるあまり、将来の展望を(少なくとも理想としては)語らなすぎているように思える。

日本はとっくに成長を遂げて望ましい状態にいるのだから当然じゃないかという批判もあるかもしれない。けれどもペシミズムは現状維持には向いていてもどこへも行けないのではないか。

 自国の歴史は自国が領有すべきである。