Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

村上春樹についての一考察、あるいは文化帝国主義への批判

日本シリーズが終わった。
今回のシリーズは巨人ファンvsそれ以外と国民を二分した戦いであったように思える。

よほどのジャイアンツ好きでない限り楽天を応援しただろう。
被災地であること、優勝経験無し、野村監督・星野監督が育ててきたフレッシュでクリーンな若手選手、田中投手、あまちゃん
どう考えても東北楽天イーグルス贔屓の国民が多くて然るべきである。

特に楽天の勝利を喜んだ友人がいる。

彼はジャイアンツが大嫌いなのだ。

 
何が嫌いかと問うと、特に原監督、長野、坂本、菅野各選手が嫌いだという。
原監督のハイタッチ(グータッチ?)の前に手をポンポンと叩くところが嫌いで、選手名鑑の菅野のコメントが気に食わないという。
 
僕は普通の人よりも野球が好きだ。けれどもそんなこと気にして見たことはない。
おそらく彼は毎日テレビにかじりついて巨人戦を観ているに違いない。
傍から見たら立派な巨人ファンじゃないか。
 
しかし、これはよくあることかもしれない。

類似した話がある。
僕は村上春樹が好きではない。
故に読まずして批判はできまいと、彼の著作は殆どすべて読んだ。
特に「羊をめぐる冒険」、「ダンス・ダンス・ダンス」は3度づつくらい読んだ。
村上春樹が翻訳したものも、フィツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」やサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」等、有名どころは手当り次第読んだ。
傍から見たら、村上春樹が大好きな人みたいだ。
 
(「ライ麦畑」は中学校時代に図書室で連日ちょびちょび読んだ野崎孝翻訳の青とクリーム色のペーパーバックのほうが好みだった。――少年の夢と大人の現実の衝突。当時感じた感想は、ハタチになった僕が大人げないけど、抗いたいと願う就活・ブラック企業等のキーワードで語られる、不安な群集心理を突き動かすような今の社会への違和感かもしれない)
 
最近、このブログの感想をくれた友人に言われた。
村上春樹の影響を受けたような文体だね」
確かに彼の言うことは的を射ているとも言えなくない。
僕も、プロ・アマチュアの隔たりなく、書き手が村上春樹を読んだ過去があり、文章を書くにあたって影響を受けたかどうかは、文面を見ればすぐわかるような気がする。あくまでそんな気がするだけ。
 

僕がなぜこれまで村上春樹を嫌いだと公言してきたのか。 その問いの答えにも繋がるのではないか。
春樹分析をしてみよう。
 
1.文化――日本においてのアメリカという名の文物 
 
ある特定の国の文学や文化について論じる時、その国が持つ歴史について触れずに論じることは不可能である。例えば、どんな些細なアメリカ分析でもピルグリムファーザーズたち、自由を求め船出して、なし得た建国まで遡らないことには薄っぺらいことしか語れない。
時間軸は常に存在し、切れ目ない「今」の流れが過去と未来のみを示唆し続ける。
故に歴史を知り適切に引用することは社会学にも必要なように思える。
(しかし僕の大学ではないがしろにされているように感じる。世界史を学んで来なかった学生があまりにも多いのだ。社会科学系学部の入試は世界史を必修にすべきである。)
 
今日における日本とアメリカの関係の出発点はもちろん太平洋戦争だ。
そして事実上の属国になった。しかし、東西冷戦を経て構築された世界のシステムを考えると、アメリカ軍の戦闘機が世界のどこからでも飛び立てるという現状は、支配下にあるのではなくて、むしろ世界は初めからアメリカの掌の上で転がされているものであると考えられるかもしれない。一神教の創造主のように。
 
最近の顕著な例はメルケルの通話がすべて盗聴されていたことだろう。それも、フランスと肩を並べ文化・歴史的にもヨーロッパの中心国であるドイツの首相の通話。
アメリカ以外の国がこんな事実を赤裸々に公表されたなら、とんでもない政治問題に発展するだろうが、今のところ世界は平常運行である。
 
戦後、占領軍が進駐してきたのがアメリカではなくて、ソ連や中国だったならば、
猛烈な反対感情が巻き起こり、今の中国、韓国、北朝鮮大日本帝国、そして日本国に抱き、靖国問題等で可視化しているような感情が今も日本人のナショナリズムに根を張っていただろう。
 
そして、占領してきたのが、唯一絶対神として現実的な力を持ち、核武装したヤハウェ――アメリカだったからこそ、高度経済成長、そしてバブル景気にかけての日本人の「アメリカへの憧れ」が成立したのだ。
 
この年代を代表する国民的アニメ「ドラえもん」の登場人物であるスネ夫の自慢の常套句は「兄さんがアメリカで買ってきた・・・」、「叔父さんがアメリカから帰ってきて・・・」であることはもはや日本国民の集合的記憶であろう。
 
そこで村上春樹である。
日本人の無意識のうちにある「アメリカ」的なものへの憧憬をくすぐるような、
春樹の描き出す「僕」の趣味趣向。これが豊かになった今日においても、僕たち日本人にはたまらないのではないだろうか。
 
洒落たバーでハイネケンなど輸入品外国産ビールを飲み、ナッツをひとつひとつ点検するようにして食べながら、トルストイの小説を読む、小さな音量でひっそりと流れる音楽はシューベルトの「冬の旅」・・・なんていう、「僕」の生活がなんとなくお洒落と感じてしまうあたり、そのことを証明している。
(上記で例示したもので、アメリカ由来のものは何一つとしてない!)
 
日本人が村上春樹を好み、新作が発売されるやいなや、みんなが一斉に飛びつく、そんな国民的作家の根底にあるひとつのファクターは、この感覚であると言えるだろう。
 
そして、そこに付随する文化帝国主義アメリカナイゼーションが、我々の日本文化を蝕んでいるというある種の危機感が、「村上春樹が好きな自分が嫌い」という感情の源泉なのかもしれない。
 
ひとりひとりの行動は小さいが、民主主義を前提として成立する大衆社会では、それがやがて大きな動きになって世界を変えることもあるだろう。
恐ろしいのはそれが無意識のうちに行われることだ。
無意識のうちに我々固有の文化を蔑ろにする――そんな感覚が「村上春樹が好きな自分が嫌い」なのだと説明できる。
 
文化を守るべき理由は前回のエントリーで書いた通りである!! 
 
 
疲れたし課題もあるので〈次回に続く〉