Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

村上春樹についての考察その2

どうして村上春樹は国民的作家になったのか。

前回のエントリーで、アメリカと日本の歴史的関係上、否応なく我々が持つアメリカ的な文物への憧憬であるとし、
 
他方で村上春樹を嫌う心理は、それを無条件に受け止めてしまうことは、自らのアイデンティティ形成と密接に関わる伝統文化を無意識のうちに否定しているのではないかという恐怖であると考えた。
 
無意識のうちに社会の大きな潮流を作り出し、気づいたら全く違う世の中になっていたこと。
このことの歴史上最も顕著な例は20世紀前半のドイツだろう。
 
ナチス平和憲法によって定められた正当な選挙で2度、国民に選ばれている。
背景にはメディア等の要因があるにせよ、当時のドイツ国民一人ひとりの無意識のうちに起こされた熱狂がもたらした帰結である。 
 
故に現代を生きる我々は確信を持って言える。
無意識のうちに起きる熱狂は恐ろしい」
 今度も歴史的視点から考えたい。
 
2. 産業構造
 
 産業構造の変化に応じて人間の価値観は大きく変わる。
資本主義がこの世界のテーマであり、
世界はこの経済・生産システムを軸に回っているのだから否みようがない。
批判するとか弾劾するとかではなくて、既に起こっている事実としてみなすべきだ。
 
それでは現在の我々はいかなる価値観で生きているのだろうか。
日本が産業化を成功させた明治維新まで遡って見なければならない。
 
富国強兵を目標とした新政府、機械を導入した工場労働が基本の形態となる新しい産業。
 
この時代から「規律を守ること」が重要視された。
そのため、これまで超エリート層の士族階級のみに行われていた本格的な教育が全国民に施されるようになる。
全国民の男子が有事の際、軍隊として機能するには何よりこの規律を守らせることが必要で、精密な統率がとれていなければ大量生産を支える工場労働も上手く機能しない。
 
意味のない規律を「疑いもなくただ従順に守る」訓練が国民皆教育の目的のひとつであることは、僕の経験上(読んだ文献や学部の講義等)、社会学者の大好きな教育論なのだが、これは今日に及んでもそのように感じられる。
 
無駄な校則がその象徴だ。
 僕の中学校には「ケニア」というあだ名のゴリラ系体育教師がいて、彼が校則を監視する犬だった。
 
「女子のスカートはひざ下〇〇センチ・メートル」とか、「10月1日まで学生服の上着を着用してはならず、常に防寒着としてカーディガンは禁止、セーターは認めるが、色は紺色のみとし、刺繍は一切認めない」等の意味不明な校則をケニアがチェックして回るのだ。
 
僕の高2の担任だった数学のT先生は、毎朝校門前に長い竹尺を持って(女子中学生のスカート丈を確認するのだろうか)仁王立ちしていた。
 
どうしてそんなことに固執するのか。寒ければ9月であろうとセーターでもカーディガンでも着ればいいのに、といつも考えていた。
 
固執する理由は単純だ。
なぜなら「無駄で無意味な規律を盲目的に守らせること」こそが公教育の目的だからだ。
日本で教育を受けてきた人なら誰もが共感できる感覚ではないだろうか。 
 
 
確かに校則には意味がないが、「校則を何も考えずに遵守する人間を作り出す」ことに意味があり、
教育がこれに成功したからこそ、統率のとれた軍国主義は実現し、1970年代後半にまで続く日本の経済成長の礎にもなったのだろう。
 
しかし、オイル・ショック以降は違う。
厳密にいうと、戦後の高度経済成長でアメリカを追い抜いた。
それが原因で、アメリカとの貿易摩擦が起こる一方日本は儲け続けた。
これまでのスタンダードだったアメリカへ工業製品を輸出する、という産業のスタイルが崩壊した時に、新たな価値観が必要になったに違いない。
 
要するにバブル以降、IT化などで新たな経済的局面を迎えた社会では、明治時代からの伝統的な規範についての倫理感は、既に産業構造とマッチしなくなったのだ。
 
その歪みに疑問を投げかけつつ、現実世界とは一線を画した「もう一つの世界」(たとえば羊男が住むいるかホテルの一室、山の上の別荘)とを行き来し、
何らかのQOLの向上をめざし奔走する村上春樹が描く「僕」は、
 
そのまま、これまで教わってきた価値観が世の中とマッチしなくなった我々に対しても何かしら示唆的であるからこそ、日本人一般にとって心地の良い作品なのではないだろうか。
 
もはや「そこそこ良い大学を卒業すれば将来は約束されたようなものだ」は通用しない。与えられてきた教育に従順であることを証明するだけの学歴では意味をなさないのだ。
就活に対する僕の大嫌いな言葉で、コミュ力とかいうものがあるが、ある意味的を射ている。
学歴だけではなくて、プラス・アルファが必要なのだ。
そうでなくても僕は時流に阿るようなことはしたくないのだけど。
 
とにかく、僕が生まれた1990年代以降の日本には目的がないような気がする。
暗い、失われた20年になってしかるべきだ。
 
静かで孤独な休日にこんなことを考えた。