イスタンブルの街角で
昨日、2013年の11月30日をもって日本傷痍軍人会が解散した。
戦後68年間、この国が戦争をしなかった証拠で、とても喜ばしい出来事だ。平和の賛歌が聞こえてきそうなくらい。
ただ、戦争経験者の老齢化を示す事実でもあるけど。
戦争があると必ず怪我をした兵士が還ってくる。
この問題は古代ギリシアのポリス間の戦争から同じように起こってきた問題だ。
もちろん彼らの生活を保障することは福祉の義務で、ある時は市民権が与えられただろうし、ローマではパンとサーカスだったっけ。とにかく生活が保障されたのだ。
全体主義的国家体制だった日本では、名誉が与えられた。
(名誉の負傷、将来ある若者がお偉いさんに踊らされて、勇敢にノモンハンで両腕を失ってきたよ。バンザイ、名誉で腕が戻ればいいけど)
日本の価値観が180°変わる前のこと。一概に批判だけでは前に進めないだろう。
戦争をリアル・タイムで経験した方々はいずれいなくなってしまっても、そこから教訓を得ることは可能だ。
福祉以外のアクターを挙げるならば、もうひとつは寄付である。
両親から聞いた話で、子供の頃お祭りなどに行くと脚のない元軍人さんがアコーディオンを演奏して生活費のため、寄付を募っていて恐ろしかったと話してくれたのを憶えている。大きな駅前にいたとも。
宗教的にこれを推し進めている例もある。イスラム教だ。
街角に硬貨を置く場所がある。たとえばモスクの柱のくぼみや橋のたもとに置く。
夜明け前に何らかの理由で働けない人がそれを取っていき、生活必需品の購入に充てるそうだ。
全ての創造神であるアッラー、当然カネは人間の手を離れた瞬間からアッラーの所有物である。
すべて、人間はアッラーの元平等であるわけだから、貧者に分け与えられるべきである。
世俗化が進むにしたがい中世的信仰心は薄れ、それを悪用する人が現れてからは、
このイスラム的貧者救済の寄付は禁止されるようになった。
しかし、近年、イスタンブルの市長が、
これを市内の福祉を担ういちアクターとして復活させようと提言した。
宗教が都市にこのように働きかけることもあるのだなと、
もしかしたら今後の研究に寄与する知見かもしれない。
いまは宗教を切り口に都市を分析することを目標に、いろいろ本を読んでいる。乾いたスポンジのようにいろいろと吸収したい。
そんな学部2年、後期も後半戦。
部活はオフに突入したので、今年完成したポール・ラッシュ・アスレチックセンターの温水プールでスイミング、それとウェイト・トレーニングに勤しみつつ、しっかり勉強するしかない。
三年以降の研究の土台づくりである!ビバ自由!
高校時代から、部活がオフになると、自由な時間がインフレ―ションを起こし、
なんでもできそうな気がしてくるのは変わらない。
適度な縛りが、学生生活を充実させてくれるのだろう。