議論せよ、人とぶつかれ
今回は「情報発信」について少し。
やはり、ひとつの物事を続けるには、それに付随する一定の意味を認識しつづけなければいけないから、僕が「このブログで何をしたいのか」については、内省的な再確認も含めて、しつこいくらい主張していきたい。
ぼくはほとんどの10代~30代くらいの比較的若い世代の人たちがそうであるのと同様に、TwitterやFacebookなどのSNSを利用している。しかし、その意義とは何か。
「ほとんど」と書いたが、実感として、上記の年代の人の10人のうち8人くらいは、実名さえわかれば、すぐにもっと詳しい彼/彼女にかんする情報を検索できる。
基本的な個人情報と写真、どんな友達と付き合っているのか、などについてだ。
なぜならば、Facebookは実名で登録し利用することを前提としてアメリカから太平洋を渡ってやってきたからだ。今となっては随分浸透しているが、当初はプライバシーとかそんな観点から、日本ではとてもじゃないが流行らないだろうと言われていたらしい。
実名で登録ということは、本質的に、個人の延長といっても過言ではない。
昨年のゼミでは、課題の提出も含め、すべての連絡をFacebookで行った。ウクライナ政府は広報としてFacebookを活用し、日本のメディアもそれをニュース・ソースとして報道していた。かなりオフィシャルな立ち位置までのぼりつめた感がある。
また、FacebookやTwitterの投稿が炎上した例もかなりあったが、これは「個人」の領域がWeb上にまで及んでいることを示している一例ともいえる。
これらはやはり「原則として実名で利用」という性質があるがゆえのことのように思える。
だからこそ、自分がどんなおもしろい人間なのかをアピールする場として活用するのが賢い使い方だと、僕は思う。
(ここでいうおもしろさとは、バイト先の冷蔵庫に入っておもしろいwwwではなくて、もし自分が企業経営者だったら、この人と組みたいと思わせるようなおもしろさです)
ぼくはよく「web上だとキャラ違うね」とか指摘されることがある。
web上であれ、紛れもない自分自身であるわけで、そして生の発言とは違い、長い間他者の目にさらされるものだからこそ、SNS上の発言こそ飾り立てたものを発信する必要があるのだ。
民主主義の議論に一役買うことを期待されたワールド・ワイド・ウェブ。
しかし、インターネット時代の社会学者たちは、オンラインにおける議論形成がいかに歪められた結論を導くかを証明してきた。
2011年の夏に不細工なナショナリズムを煽った、フジテレビ韓流騒動は確かに、インターネットにおける言論のもろさを立証していただろう。主観的なイメージだが、2ちゃんねるで有意義な議論は稀有だと思う。
それでも、自分の意見が誰かに検閲されるわけでもなく、発言機会だって自由自在なことがインターネットの長所であることには変わりない。
たしかにフェイス・トゥー・フェイスでディスカッションするのとは異なることがあるが、諸君と意見を言い合えれば自分のためになると考えてわざわざこのブログの存在を宣伝している友人諸君や、たまたまこのブログにたどり着いた人も何らかの興味が僕とかぶっている可能性が大いにあるはずなので、とにかく、活発に議論したいと考えていることを今日のエントリーでははっきり言っておこう。
・あまりに独りよがりな「傲慢なる言論活動」と自負しているわけです。当然異なる意見を持つ人もいるはずだからこそ、反対意見でもコメントでもお待ちしています
・あまり公然と話せないこと(たとえばカフェや電車の中でセクシャル・マイノリティの話を大きい声でしたくはない)も扱っていく予定なので、それはこの場で話すのもアリだと思ってます。