Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

南国の舞台裏

ゴールデン・ウィークにまつわる小話だ。
 
あの晩春、僕は11歳で、ハワイにいた。
 
ゴールデン・ウィークに関して言うと、そのハワイ旅行がこれまでのGW最大のイベントであり、春の連休を使って旅行したのも最初で最後であった。
そして、ハイアットに泊まったり、毎晩毎晩ファンシーなレストランに入ったりと、1ドルが130円程だったあの頃にしては、ずいぶんと贅を凝らした旅行だったのだろう。
ゆえに、強烈な思い出が残る土地、ハワイである。
 
今年の連休にも、成田空港でハワイ・ルックをした人々がテレビの取材を受けていて、僕はそれを梅雨のような雨の降る家でぼんやり眺めていた。
 
その通り、ハワイと聞いてイメージするのは「常夏のリゾート地」である。
(サングラス、ココナッツオイルの香りのする日焼け止め、ピナコラーダバドワイザー、ハンバーガー、サーフィン、飛び交う日本語・・・)
しかし、そこには先住民がいて、発達した彼らのシステムがあった。それらを僕らの言葉でいうと、国家があり、独自の文化が存在した。
さらに、近代史の展開の中で、ハワイは多民族国家という特徴を帯びるようにもなる。
そして僕たちはその事実を無視してハワイを満喫している。
あるいは、一方的で想像力が欠如したイメージを消費し続ける。
 
今回はゴールデンウィークということで、ハワイの舞台裏を2つの切り口から書いていきたい。
 
1.先住民=未開の土人は間違っている
 
カメハメハ大王くらいは有名だが、その大王を頂点に据えて、発達した統治システムがクック船長がやって来るまで、そして白人が入植するまで、ハワイにはあった。
まあ、ここまでは誰もが想像できるし、観光の一環として、あくまで資本主義という我々の価値観をベースに、かつてそこにあった文化が消費されている。フラダンスや「アロハ」とかいうハワイ語などがそうだ。(Hawaiiというアルファベット表記に疑問を持ったことはないだろうか)

しかし、その目線はどこか見下ろすようであり、ハワイ原住民=未開人のイメージを知らず知らずのうちに実践しているように思えてならない。
 
象徴的なできごととして、露店で観光客相手にハワイアンな伝統工芸品を売っている肌の浅黒い現地人に、小学生の僕はおぼえたての「Howmuch? Discount this!]という言葉を使ったことを記憶している。(生意気だ!)
 
 日本人にとって「こちらの世界」の商店であるABCマートホノルル市街地のスーパーマーケットでは決してそんなことは言わないはずだが、非白人の現地人に対しては「値切り」という行為を行った。日本人の少年ですらそこの区別ができた。
その判断基準とは、他ならぬ「資本主義的な上から目線」だろう。
 
日本が「こちら側」に組み込まれたのは戦後、正確に言うと、ここ半世紀ほどである。
この春で、日本人の海外渡航が自由化されてちょうど50年、その間に「世界の半周辺」から「中核」までのし上がった。
たった50年で日本人の意識は大きく変わった。
 
 
さて、ハワイ文化の特徴についてだ。

日本人にとってコメが特別な作物であるように、ハワイでは(また南太平洋諸地域でそうであるように) タロイモが特別な作物である。
親を連想させる主茎から子としてのイモが実るさまは、「家族」のメタファーであり、農耕民族としての原住民の生活を支えてきたものである。
 
 (日本では、国の象徴たる天皇陛下がその年の新米を食べる儀式、新嘗祭が1400年以上前から行われている。コメにかかる関税もとても高い。40パーセントほどの食糧自給率の日本でも、コメの自給率だけは100パーセントを超している。TPPの交渉が難航するのも当たり前だ、コメはただの穀物ではなくてナショナル・アイデンティティだからだ)
 
また、彼らが高度な航海技術を擁していたのは、考えてみれば当たり前で、ハワイ先住民の祖先はポリネシアから海を渡ってやってきた人たちである。 
 
そうした文化的背景のもと、国は王を中心にピザのように区分されていた。
そのひとつひとつの地区には、その地区の農作に責任を負うリーダーがいて、彼のもと一致団結して農耕に勤しんだ。
まるで中世の封建制度や荘園制度のような支配システムがあり、システム化された社会がそこにはあったのだ。武士やキリストはいなかったけど。 そして、封建制同様に身分制を敷く社会でもあった。
 
しかし、この身分差を肯定する社会のありかたは、近代に移行した西欧の思想とは相いれないもので、「平等」や「自由」の精神のもと、暴力的に破壊されたのがハワイ先住民の国家である。
 
それから120年あまり、あいかわらず、ハワイを文化的文脈を無視した理想郷として消費する。
 
ハワイの人口割合を考えると、20パーセント近くのポリネシア系原住民の子孫が今も暮らしており、暴力的に奪われた彼らの社会を顧みずに築かれたユートピアを無邪気に楽しむつもりは(少なくとも僕には)さらさらない。
 
近代の政治哲学的文脈によってのみ「未発達」の烙印を押されるわけだが、
これほどに発達した統治システム、生産体制が、先住民たちの国家にはあったのだ。
 
先住民ときいて、即座に原始的な狩猟・採集の生活様式を想像するのは間違っている。文化に対する多大なる冒涜に他ならない。
 
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このエントリーもGWにバカンスする人々への僻みでしょうね。
 
次のエントリーでは「人種のるつぼ」としてのハワイについて書きたいです。

<後篇に続く>