Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

震災を経て日本人は優しくなったか

たんなる前回の南アフリカW杯との比較だが、2010年は開幕前に「岡田ジャパンには期待薄、グループ・リーグですぐ負けて帰ってくるだろう」という冷たい意見をよく聞いたものだ。特にワイドショーや週刊誌の広告という大衆向けのメディアで。予想に反して勝ち進んだ時の掌の返しようは見事だった。

今回、日本が入り込んだグループは、あまりサッカーに明るくない僕が見た感じ(つまりFIFAランキングなどからの客観的視点)で、前回大会よりも絶望的なように思える。

それでも、日本代表に関するネガティブな意見は、最近になってようやく本田選手のバッシングという形で見られるようになったくらいだろう。2010年、大会前に岡田監督バッシングが大々的に行われていたこととは対照的だ。

二つの要因が考えられる。

一つは、西欧人監督への信頼感とバッシングのしづらさである。
もうひとつは、震災後、国を照らす光としての「日本代表」(それがどんな分野であれ)が少しナイーブな存在になったことが挙げられるのではないだろうか。

前者は、日本の近代史の特徴を考え、日本におけるサッカー史まで考慮しないといけないので、書き出すと脱線事故を起こすだろう。故にわざわざここに書きたくない。

後者は、東京オリンピックで「東洋の魔女」が、戦争で徹底的に打ちのめされた日本国民に久々に外国に対する勝利の感覚を味わせ、熱狂させたような感覚だ。

スポーツの国際試合を冷静な目で見ると、大半の国民にとって、日本代表がその試合に勝とうが負けようが、直接の利益にはならない。
それでも、本来は存在しない「日本国民」を想像させる。
何が我々を「日本人」として結びつけているのだろう?

「日本人」は単なる概念に過ぎないはずだ。
私たちは親族と地方ならば市町村、そして学校や会社などの限定された人間関係の中で生きている。
全ての日本国民と関係を持つなんて不可能だ。(首都圏・中京圏・阪神圏、そして福岡に住む全ての人と知り合いになってようやく半分だ)
それでも、我々は日本人として結びついている。それ自体には何の利益もないし、その感覚が時として国民に自発的に命を捨てさせることになろうとも(!)

この「日本国民」を想像させる現象として、共通項を持つのが、戦争や災害からの復興だと思うのだ。
だからこそ、今回はこの二つが結びついて、W杯が少しナイーブな存在になっているように思える。
昨冬オリンピックのキャッチフレーズ「ソチ・全力応援」も象徴的だ。(なぜ親族や知り合いでもない選手を全力で応援しなければならないのだろう)

仙台出身の羽生選手が金メダルを取って復旧は進んだか?かれは観光資源になるのか?答えは否だろう。(尤も、羽生結弦選手にヨン様同様のフィーバーが中産階層のご婦人達に起きているとすれば、可能性はゼロではない)

僕はひねくれている。オーケー、認めよう。

毎年何かしらのスポーツ国際大会が行われる。野球のWBCに夏と冬のオリンピックが2年おき。そしてサッカーW杯だ。スポーツが社会に歩み寄る機会が、私たちに「日本人」を想像させる。
そして、これはナショナリズムの高揚としては歴史上最も好ましい形なのだろう。しかし、この感覚がかつては、人を殺したことも忘れたくはない。

ナショナリズムには、僕はいささか過敏だ。それでも確固たる主張は何度でも繰り返し書く。高校の現代文や英語で習ったことだ。

安全保障に関わるナショナリズムの高揚には臆病過ぎるくらいでよい。