民主主義の誕生日、あるいは自由への回帰
1989年6月4日についてのエントリーを書いたが、この日付は世界史上、2つの大きな意味を持つ。
ひとつは天安門事件だ。日本の新聞でも、この事件から25周年だと大きく報道されていた。そして、実はポーランドにおける初の自由選挙が行われてからも、今年の6月4日で25年でもあった。
今春、神保町の岩波ホールにアンジェイ・ワイダ監督最新作『ワレサ』を観に行った。
電気工のレフ・ワレサがリーダーとして、ストライキをしたり、戒厳令によって逮捕されたり、合法化されてノーベル賞を受賞したりして、最後には民主化を勝ち取るという実に長ったらしい一連のストーリーがある。(観に行った日は寝不足と二日酔いでどうしようもない日曜日だった。でも名作だと思う、検閲のある共産主義圏の作家は比喩が巧みだというが、紙おむつすらない!のシーンは秀逸だ)
その象徴ともいえる自由選挙から25周年だったのが一昨日なのだ。
公正かつ、自由の名のもと行われたこの選挙で、共産党は木端微塵に敗れた。そりゃもうズタズタに。この選挙で露わになったのは、ポーランド国民の共産党に対する圧倒的な拒絶であった。
つまり、中国民主主義の萌芽が死んだ日でありながらも、ポーランド民主主義の開花の日が6月4日なのだ。
オバマがクリミア半島と関連付け、このポーランド民主主義の誕生日にかんするスピーチを行ったのだが、日本の新聞では一切触れられてない。NHKの定時ニュースでも僕の知る限りは。一方で昨日のThe WallStreet Journalでは一面だった。
日本社会にとっては中国のほうが大事なのだろうか、いいや、中世がカトリックの時代だったように、現代は民主主義の時代だ。昨日ブリュッセルで行われた、G7(!)の会談でオバマが、今月中にウクライナへの干渉を止めなければ、ロシアに対してさらなる制裁措置をとることを警告したが、その会談には、もちろん安倍首相も出席している。
大げさだと笑われるかもしれないが、ウクライナを第2のサラエボにしないためにも、情勢を見守る必要がある。もちろん有権者として、おかしいと感じたことには異議の声を上げるために。それができるシステムこそが、これほどまでに守り、押し付けようとしている民主主義なのだから。
僕が思うに、民主主義という政治体制の主役は他でもない我々なのに、政治を担っているという認識がなさすぎる。若者に限らずだ。
それならば、まだ不満が爆発したり、意見がぶつかり合うような政治の方が、社会全体が生き生きしていると表現できるのではないだろうか。
歴史的に社会変革はマジョリティ側支配階層の異分子が起こすことが多い。それでも闘わなければ社会は変わらない。公民権運動などがそうだろう。
世界は老いたのか。ここ1世紀で技術は際限なく進歩した。その帰結が青年期を終えた世界と呼ぶにふさわしいのは、資本主義と民主主義に支えられたこの社会構造の限界なのか、たんに世界の一部だけで平和が実現したのかはわからない。