Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

清く貧しく生きて行かん

人身事故に遭遇した。

僕の乗っていた列車が人を轢いた。

駅間だったので、降車することもできず、人生の中でもトップクラスに暇な2時間半を過ごした。年末に多いのは何故か。それとも寒いからか。(社会生活が活発になる季節に自殺は多くなるとデュルケームの『自殺論』で読んだ気がする。ある商売の人にとって12月は繁盛期?)

時間を無駄にはしたくないので、持っていた夏目漱石の全集で『草枕』を読む。

なにかイタリア語の歌を、明治時代の西欧かぶれがボートの上で歌う。

映画『アマデウス』で出てきたモーツァルトのオペラ「後宮からの逃亡」の原題(El Rapto de Serrallo)を検索する術すら持っておらず、イタリア語ができない自分を嘆いた昨年を思い出した。

結局ドイツ語を基礎からやり直している僕には、イタリア語に手を出す暇などない。

どんな時にも文化を消費するようにしてきた。

何があろうと毎日本のページを繰っているし、本も読めないような満員電車の中でもイヤホンを耳に突っ込んでシューベルトでもドヴォルザークでも聴く。何もない旅先では、ラジオにせよテレビにせよ、常に文化を消費して生きてきた。

あと何年か学び続けた末に、僕は文化の、知の消費者から生産者になりたい。

外資系企業の選考が始まっており、すでに面接試験を受けた友人が何人かいる。しかし、僕はそういう志を持って就職活動に背を向けているのだ。

純粋な学問を切り捨てようとする社会は度量の狭い社会だ。 

文部科学省は国立大学の人文・社会科学系の規模を縮小させようと目論む。

自然科学系とて例外ではない。補助金がもらえるのは実用的で投資を生む応用研究ばかりで、日本では基礎研究がないがしろにされ続けていると研究者の嘆きを聞いた。

芸術家による意味不明なアート活動や、アカデミックな自己満足の世界は、社会の余裕を測る指標みたいなものだ。金儲けだけ注目される社会は豊かだとは言えない。

転じて総選挙、「この解散は、アベノミクス解散であります」と安倍首相は経済政策のみを争点に据えた。まるで憲法の問題とか、秘密保護の問題を隠すように。

われわれ有権者はカネ以外のものさしで社会を見る必要があっただろう。

自民党改憲草案では、首相が非常事態を宣言すれば、憲法を停止することができるように変更されている。事実上の独裁になる。

強いリーダーシップを好むことは、トップダウンの強い社長を賞賛するような企業風土を持つ日本の特徴である。 確かに現政権に強いリーダーシップを認めよう。頼り甲斐のある政権だとも思う。

しかし、疑いの目を持ち権力を監視することは、報道のみならず近代市民の義務だろう。

安部政権がそうだとは言わないが、日本が必要最低限度以上の武力を持つことで、われわれ日本国民は加害者にもなりうるのだから。


中国行きのスローボート

「靴を忘れないようにね」

忘年会シーズン、いつか、女の子に言おうと温めているセリフです。 
24:00ぴったりの終電を逃しそうな女の子にかける。

もっとも、郊外に住む僕の終電は新宿駅11:30発なので、シンデレラとの夜遊びはできないのだが。


これは村上春樹の短編集『中国行きのスローボート』に出てきたセリフで、タイトルはvoteとboatで掛けました。

みなさん、投票しましたか?

僕自身、および周辺の投票行動には、アンダードック効果が生じたのかもしれないと思いました。
負け犬効果、判官びいきとか言いますが、劣勢な方に肩入れしたくなってしまうアナウンスメント効果のひとつです。

小選挙区はそれぞれ好きな候補者に、それで比例は共産党に投票した人が僕の周りでは多かったです。

自民党が圧倒的に強いことは分かりきっていたことなので、対抗勢力に一票を。民主党は国会において野党第一党としての役割を果たしていません。だから象徴的野党としての日本共産党に。勘違いしてはいけないのは、共産党に投票したからといって、共産主義者であるということではないことです。だれも共産主義革命なんて望んではいないのです。なぜならば、日本の共産党はとっくの前にソ連と決別していますし、中国共産党とも仲違いして以来、独自路線を貫いてますから。

今日はキューバリブレで乾杯して、日本共産党の大躍進を祝ってきました。
2杯目は赤ワインです。ヨシフ・スターリンの出身地、グルジア(ジョージア)はワインの名産地です。


投票率は過去最低の52.66%でした。
国家は国民を庇護し、国民の生活を保障するものだと信じていました。
日本史と世界史を勉強するようになって、長い歴史の中では、そんなことは全くなかったことを知ります。
若者たちよ、政治に関心を持たないと、いつか国に人生を台無しにされるぞ。最悪の場合、国に殺されるぞ。と、ちょっと憤りを感じます。







六大学野球を見に行った

2010年11月、50数年ぶりだとかいう、六大学野球の優勝決定戦としての早慶戦を、NHKの全国放送で観たひとりの少年は、早稲田大学に憧れた。日本ハム斎藤佑樹がキャプテンの年だった。

点が入るたびに、スタンドを埋め尽くした早大生が肩を組み「紺碧の空」を大声で歌っていた。

その秋から、15ヶ月先の大学受験に向けて猛勉強を始めた。最低でも早稲田に入れるようにと、とある東京の国立大学を目標に掲げた。これが失敗だったのだと思う。
その少年は、どこで気を抜いたのかは知らないが、最低限の目標すら達成できなかった。

それでも、六大学の他の大学に合格することはできた。そこの過去問対策はしていなかったので、まさに僥倖と言うべきだった。

今年、15年30季ぶりの優勝に王手をかけた立教大学は、10月下旬の優勝決定戦には神宮球場の一塁側スタンドを紫色に染めた。

その紫色の群衆に加わった瞬間、我如古選手の犠牲フライで明治大学に追いついき、「立教健児」を仲間と肩を組み、歌った瞬間、入学以来モヤモヤと心のどこかにいたあの少年は、どこかに昇華されたのだと思う。

愛校心を持たずに気づくと3年も通っていた。少しは自分の大学を好きになれた瞬間である。優勝は逃してしまったが応援に行く価値があった。


友人諸君も、たまには大声を出しに神宮球場に行ってみてはどうだろうか。次の六大学リーグ戦は4年の春。始まっているであろう就活のストレス発散にはうってつけだ。





自由からの逃走

近代以降、人は自由に苦しめられている。これほどまでに自由を手に入れたのにちっとも幸せになれない人が大勢いる。

近代化、つまり工業化を経て、多くの人々が都市に暮らすようになった。そこには小さな農村社会のしがらみや因習などは存在しない。眼前には自由の世界が都市の明かりとともに広がる。しかし、農村社会から自由になるということは、同時に、何が適切で、どんなことをして生きていかなければならないのかを、自分の頭で決めなければならないということである。農村の小さな社会では、自分の両親、祖父母、曽祖父母・・・とご先祖たちが作り、状況に応じて調整してきたルールに従って生きればよい。じいちゃんも父さんも、息子も孫もみんな同じ仕事を世襲する。選択の自由はないが、自由だけれども失業への恐怖と不安定な暮らしを送る都市の住民とでは、どちらが良いのかは分からない。

僕はサラリーマンの父と、大学で働く母との間に生まれた時点で、農村社会的な束縛からの自由は保障されてきたわけだが、いざ進路を考えると、その自由に苦しめられてきた。大学入試は楽だった。名のある大学を志望し、実際合格してしまえば、誰にも反対なんてされなかった。既存の権威にしがみつくのも逃げ道のひとつである。就職活動あるいは大学院進学、これからの人生を大いに左右するイベントがこの後に控えている。そこでの自由は自己責任の自由だ。これが非常に苦しい。

青森かどこかの農村に生まれて、家の近くの公立高校に何も考えずに進学し、卒業後は家業のりんご農家になる。何年かしたら、気立てのよい奥さんをもらい、二人で生きていく。僕の好みは安産タイプの女子なので、4人くらいの子供に恵まれながら、産後は体型が戻らず肥ってしまいながらも人当たりの良い奥さんとわいわいがやがや、笑顔の絶えない家庭で暮らしたい。「田舎なんて嫌だ!」と出ていく娘も無言で見送りつつ(都市には自由と苦労があることを僕は知っているのだ)田舎から都会で頑張る娘を応援したい。

あるいは、観光地のお土産屋さんの長男として生まれ、地元の公立高校を出たあとは、毎日、名物のおやきでも焼きながら観光客を相手におしゃべりをする。優しい奥さんを町内からもらい、幸せに暮らしたい。閑散期や農閑期には、家にこもってトルストイの超・長編小説でも読みながら暮らすのだ。そこには都市的な幸せの形はないものの、どう考えても幸せな毎日が送れそうだ。自分の両親や祖父母が作ってきた流れに従って生きていけばよいのだから、外から見るよりも農村的閉鎖空間も悪いものではないような気もする。

〇 

ここまで、デュルケムの『社会分業論』の有機的連帯・機械的連帯の理論に沿って書いてきた。農村から出てきて「都市の自由」に不安になるのは19世紀・工業化の時代の人々だけではない。

「小さい頃、自分は兵隊になるとしか思っていなかった。いざ何にでもなれると思うと急に不安になる。将来が見えない。自分の行き先が誰かに決められている社会は絶対に不幸だとわかっているのだけれども」

黒柳徹子『窓際のトットちゃん』の続編とも言うべき映画「トットチャンネル」で、戦後すぐの若者が話していた。世界各地で通時的に起きている、都市に普遍的な問題なのだ。自由の重圧は、時として深刻な事態をも引き起こす。

〇 

戦後の社会学の大きなテーマのひとつは「どうして近代は二度の大戦と、ファシズムを生み出したのか」であろう。ハンガリー生まれのユダヤ人でドイツの社会学カール・マンハイムは「甲羅のない蟹」というモチーフで、自由な都市に出てきた人々は、「絆」を失い、さながら甲羅のない蟹のように精神的に弱い存在になると分析する。このように、人々が「集団の絆」を喪失している状況を、ナチスは同調性を勝ち取るための戦略で狡猾にも利用した。

(何の取り柄もない人でも、どんなバカでも、ナショナリティの下に集まることができる!特権性を身につけられる!)

不況で都市の生活が不安定になると、都市生活者の持つ自由が大きな負担となる。拠り所となるべき、人々の「心のつながり」も都市にはない。都市生活は戦後「モーレツ社員」と「イケイケドンドン」くらいまでは素晴らしいものだったが、今では危ういものだろう。戦後日本の価値観から脱するべき転換期はリアリティを帯びなければならない。だからこそ、機械的連帯の農村社会に甘い幻想を抱きたくなる。

 

 

About Comfort Woman

従軍慰安婦について思ったことを記録しておきます。最近、2本の論考を読みました。

 

ひとつめは、冷泉彰彦氏のコラムです。(朝日「誤報」で日本が「誤解」されたという誤解 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

この論のロジックは、以前僕がこのブログで書いたことと少しだけ似ています。――日本は戦後、新たな国家として生まれ変わったのか?

 冷泉氏によると、少なくとも国際社会は太平洋戦争を起こした「枢軸国日本」と、現在の「日本国」は別の国であると考えいます。ゆえに、朝日新聞の誤報によって、朝鮮半島の女性を日本軍が強制連行した、という誤った情報が広がってしまっても、日本国が受けるダメージなんてものは無に等しいという考え方です。産経新聞や読売新聞などの保守メディアは、大々的な「朝日叩き」キャンペーンで、訂正と謝罪を要求しました。また、国際社会へ向けて弁明をするべきだと主張していました。しかし、これは逆効果だと冷泉氏は言います。必要以上に慰安婦問題の弁明をすると「枢軸国日本」と「いまの日本国」は連続した、同じ国家であると、われわれ2014年の日本人が主張していることと同じことになってしまうからです。ここまでが冷泉氏の論考の論点のまとめです。

たとえば、これまで明らかにされてこなかった、ナチスの非人道的な振る舞いの証拠が新しく出てきたとしましょう。そのことで、現在のドイツ人のイメージは悪くなりますか?逆に、メルケル首相が、ヒトラー政権のホロコーストについて、ナチスをかばうような発言をしたらどう思いますか?

 

ふたつめです。

Is the Asahi a scapegoat of nationalist media or victim of own missteps? | The Japan Times

The Japan Timesの論考で、今回の論争の「吉田証言」について指摘されています。

ほとんどの韓国人は、吉田証言の存在自体を知らないし、従軍慰安婦関連の活動をしている活動家は、その信憑性が疑わしいことを知っている、と書かれています。

韓国を含めた国際社会の注目する点は、強制連行だったか、民間業者の斡旋だったか、ではないのです。それなのに日本だけが、吉田調書の瑣末な部分に異常な執着を見せるのは何故でしょうか。

He noted that a certain newspaper — apparently the Sankei — distributed a massive number of leaflets that were critical of the Asahi and calling on readers to subscribe to the Sankei.

池上彰氏が9月18日の週刊文春に投稿したコラムによると、産経新聞は、朝日批判の大量のリーフレットを配布し、読者に購読を呼びかけている」と最後から2番目の段落に書かれています。

 

保守系のメディアは商業的な理由から、論点のずれた「朝日叩き」を盛り上げ、安っぽいナショナリズムを煽っているように思えます。主にウェブ上で横行している反・中国、反・韓国のヒステリックな民族排斥的言論を見るのは非常に不愉快です。もちろん、誤報の批判を他の新聞社が再検証を行いつつ掲載することは、その問題が民主主義を支える議論の内容として有意義であるならば、歓迎すべきことでしょう。読売新聞や産経新聞が売り上げを伸ばすために、誤報批判の範疇を超えた、朝日新聞批判を行っていて、その商業的で恣意的な報道で、上記の民族排斥的ナショナリズムが煽られているのならば、そんなジャーナリズムは遅かれ早かれ滅びるでしょうし、滅びるべきです。

 

P.S

最近は毎日、3紙の新聞を読むように心がけています。偏らないために(!)朝日と読売、それと大学で配られているThe WallStreet Journal、たまに毎日新聞も無料配布されているのでその日は4紙。今日はThe Japan Times を読む機会があったので引用してみましたが、WSJ的英文に慣れているのか、ちょっと読むのに苦労しました。新聞によって語彙が違うんですかね(英文の難易度の差はほとんどの場合、語彙の差だと思うのだ)。

 

ISISについて思うこと

 数週間前、イスラム過激派の問題は日本社会においてはリアルになり得ないと、ツイッターで発言した翌日に、北大生がISISに参加するための準備をしていた罪で捕まったことがニュースになった。

 少し外に目を向ける。BBCによると、15歳のごく普通の少女が家出をし、飛行機に乗ってイスタンブルに向かったとされるニュースがある。世間はISISのジハードに参加するのだと当然のように推測し、それに対して、残された家族はひどく苦しんでいる。(

BBC News - Missing Yusra Hussien: Family appeal over Syria case teenager

 

 これらのニュースで、村上龍の『希望の国エクソダス』を思い出した。中学生たちがパキスタンへ向かい、日本社会からの「脱出」を図るという社会現象から話がスタートする。『愛と幻想のファシズム』の21世紀版と言える大作であろう。

 僕は高校2年生の時にこの本を読んで、学校からのエクソダスをした。この時期は、クラスの、想像力の致命的に欠如した一部のメンバーとそりが合わずとにかくつまらなかったのだ。降りる予定の駅で電車を降りずに乗り続け、北千住を過ぎたあたりからガラガラになった電車を、当時の業平橋駅で降りた。スカイツリーが半分くらいまで空に向かって伸びていた。まだ展望台はなく、巨大な台形のオブジェみたいだった。小一時間それを眺めたあとに、急行電車に乗って急いで帰った。数学の授業があり、少しでも遅れると、加法定理や指数法則の理解に深刻な影響を及ぼすからだ。

 イスラム過激派の問題は、海の外だけの問題ではなくて、日本国内にもあるのではないかと思う。反米的な思想を持つ研究者は、条件反射的にイスラム過激派の擁護・支持をしてはいけない。「反権力を好む」研究者はひじょうに多いが、オウム真理教はこの研究者の反権力志向を教団の宣伝のために利用し、一連の事件後、宗教社会学界に多大なる反省を残した。

 ぼくは社会の「アヤシい」ものに近づく研究がしたいと考えているが、問題や制約はたくさんありそうだ。先人たちの苦労からも学んでいきたい。

自己批判

 これまでのエントリーの反省をします。マックス・ウェーバーは、社会学の研究において、「事実と存在」と「規範や道徳(価値観)」を分けて考えるべきだと考えました。つまり「~である」と「~であるべき」とを分けて研究をしなければならないということです。

 「学問の世界は、ジャーナリズム同様に困っている人の声を代弁するような研究をするべきだ」というのは僕の信念であり目標です。しかし、問題意識を持って研究していると、ついつい事実と価値観を混同してしまいがちです。たとえば、「日本社会には100,000人のムスリムが暮らしている」「しかし、日本人は宗教に対して寛容で無頓着であり、それは時として無神経にもつながるから、ムスリムについてもっとよく知るべきだ」は同じ文脈で発言してはならんのです。論文指導でかなりの頻度で指導教官から突っ込まれる点らしいので注意しましょう。

そういう点から、僕のこれまでのエントリーはあまり科学的とは言えないのではないでしょうか。

 

 フンボルトが掲げた教養の理念には、過去の知を批判的視座から再検証し、つねに知の更新を目指すことで培われる「自己批判能力」がありました(ほんとうは出典を示したいところだ)。学部・修士くらいまでは、積極的にいろいろな知識を蓄えて、知の基盤を築いていくためにも、まずは、事実と価値観とを分けて、過去の知に敬意を持ちつつ、ぶつかり合っていければ理想です。