Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

夏のアドリア海に吹く局地風といえばなんでしょう

日本の戦争責任について問いただす声は静まらない。

それらは主として隣の国々から発せられる声だ。

以前のエントリーで、細かい歴史認識に齟齬があれども、日本の蛮行とも言える事実があったことは双方が認めている以上、日本は永久に加害者として振る舞わなければならないと書いた。

それが、今後の世界平和のためになるのなら、自称愛国者諸兄にとって不服で不公平に思えても、仕方がないことだと思う。

 

そして、先日の集団的自衛権に関する解釈変更に対して、日本の軍国化を懸念する反応を示してきたのは、中国と韓国である。

 

大半の日本人は読んでないだろうけど、政府が出した武力行使の条件は相変わらず非常に限定的で妥当に思えた。

集団的自衛権の解釈変更が、すぐに海外の戦場における自衛隊武力行使に繋がることはないだろう。

ただひとつ、問題があるとすれば、民主主義の欠点ともいえる数の暴力から国民を守るために存在している憲法に関わる議論が、われわれ国民の手の届かないところで行われたことだ。

日本の憲法は、9条固持派の圧力も相まって、非常に硬性だと言える。改憲のハードルが高い。

 それでも、憲法9条の一部を変更し、積極的平和主義をとることが、日本国民の為になると胸を張って主張できるのなら、正々堂々と国民投票で問えばよかったのだ。

安倍首相は、国民の支持を得る自信がなかったのだと思う。解釈変更に至るプロセスだけは、改憲派にとって不名誉だった。

 

繰り返すが、集団的自衛権の内容自体は、それほど問題がないように思える。しかし中国と韓国は強い懸念を示した。右傾化を危惧し、戦前の日本に戻りかねないと警戒しているのだ。2014年の日本も1914年の日本も1937年の日本も同じ日本であるという認識がこれらの国の中にはあるのかもしれない。

反対に、日本人には戦前の日本と、現代の日本は別の国であるという認識があるのではないだろうか。

ドイツ人もホロコーストについて、「あれはドイツではなくて、ナチスの犯罪」という意識が少なからずあると聞いたことがある。(その割には、加害者としての振る舞い方がとても上手だ。ワルシャワゲットー跡地に献花し、ひざまずくブラント首相。日本がドイツから学ぶべきことのひとつだ。)

 

とにかく、日本は敗戦を機に一度解体され、生まれ変わったという認識が、確かに存在するだろう。

近代国家形成の求心力として、明治維新後、国家神道という宗教とともに担ぎ出された天皇は、国の象徴となった。陸海空軍を統帥し、司法・行政・立法の三権を統治する天皇とは打って変わり、「君臨すれども統治せず」である。

 平和憲法と銘打たれた新憲法の制定を経て、穏やかな農業国としての日本国がスタートした。

余談だが、経済大国となった要因としては、アメリカがマーシャルプランによって、共産主義圏に対する防波堤と位置付けたからだ。朝鮮戦争は好景気をもたらし、日本経済のカンフル剤となった。

 憲法は国家の大きな構成要素であろう。日本国憲法によって、日本は戦前の日本ではなくなったのだ。(ゆえに、解釈ひとつで憲法の内容を捻じ曲げるような態度には強い嫌悪感を示しておく)

 

それでも、戦前から今日まで、一定の連続性を備え、存続している組織やメンタリティも数えきれないほどあるだろう。

ひとつは官僚制である。内務省は戦争責任が重大だったので、GHQにより解体されたが、それ以外の省庁は、そのまま日本の政策の立案、施行を行い続けている。各省庁にも戦争責任が無いとは言えないのに。

 

海上自衛隊も海軍の伝統を大きく引きずっているという。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公のひとり、秋山真之が訓練した江田島海軍兵学校は、今日に及んでも、海上自衛隊の第1術科学校として、幹部自衛官や海曹士自衛官を輩出し続けている。

陸上自衛隊と陸軍との関わりが完全に断ち切られているのとは対照的だ。

 

最後に新説である。

戦前の「日本男児はこうあるべき」的メンタリティは、高校野球に保存されて今日まで続いているように思えてならない。

その過程では、監督やコーチからの暴力や暴言はある程度正当化される。先輩からの圧力だって、他とは比べ物にならない。暗黙の了解でみんな丸刈りだ。

一方で、高野連だけ「高校生のスポーツ」の括りから独立している。就職活動やアルバイトの面接等で野球部出身者はとりわけウケが良い。また、全国大会はNHKで全試合生放送といった優遇のされ方は、野球というスポーツの性質以上に、日本社会にその理由を求めることができるのではないだろうか。

戦前存在した「男児はこうあるべき」の理想が社会の深層に根付いているのかもしれない。

 今週から、夏の甲子園、地方予選が始まる。

我が母校は、ひとつ勝てば埼玉の横綱浦和学院と対戦するらしい。

近年、部内のいじめや、強豪校のスポーツ推薦入学、指導者の暴力が問題として俎上に上げられ、戦前からの連続性を持った組織としては変質しつつあるかもしれない。

(いじめや暴力問題は解決の糸口がみつかりそうだが、野球推薦問題は今なお、何の対策も講じられていない。野球エリートという無粋な強豪校への反逆として、わが母校には頑張ってもらいたい。でもまあ、まずは1回戦!)

とにかく、サッカー日本代表が無残な結果で帰ってきたので、日本はサッカー文化の蓄積がまだまだこれからだという文脈から今回のエントリーがある。

Jリーグ開幕の年に生まれた僕らの世代は野球とサッカー、どちらかというとサッカーのほうが優勢だった思い出がある。浦和レッズ大宮アルディージャがあるサッカーのまち、さいたま市に育ったからかもしれないが。

日本のサッカーはまだまだ、文化として黎明期だ。体格で劣るとかそういう問題は無視して、焦らずこれからだと信じたい。