フランクフルト旅行記②
一般的なフランクフルト観光についても何か書き残しておきたい。
写真ももちろん、みんなに見せることができて素敵だが、文章で残した方がいろいろ伝わるし、後あと思い出せると考えている。
定番のシュテーデル美術館を訪ねたが、自分はまだまだ無知なんだと実感した。
レンブラントやホルバイン、ボッティチェリ、クールベなど知ってる人(たいていが超有名人なのだが)の絵を見れば、おお、これがそうなのか、と楽しめたのだが、知らない画家の作品を見ても、作品と時代背景の関係を推察できるくらいであまり興奮できない。もっと勉強してから来るべきだった。
ついでにゲーテ・ハウスとゲーテ博物館にも行った。文句を言うならば、英語の展示紹介が存在せず、すべてドイツ語だったことだ。
一昨年滞在したヴェトナムでは、博物館の展示が4ヶ国語くらいあって、これにはかなり感動した覚えがある。ヴェトナムの歴史を考えるとフランス語が用意されていることは当然だとしても、さらに1ヶ国語あることがすごい。
帰国後訪ねた日本の博物館は日本語と英語しかなく、なにが「おもてなし」だと嘲笑したことがあるけれど、まだ親切なほうなのかもしれないと思った。
中3の英語程度の実力が錆び付いた僕のドイツ語では、
・ゲーテはレンブラントのことが大好きで、かなり影響を受けた。
・「レンブラントの思想」とかいう研究もしたらしい。
ということくらいしか理解できなかった。そのあとにウェルテルを読み直すと、序盤にウェルテルが絵画について(手紙のなかで)語るのだが、少しは違った読みかたができるかもしれないと思った。まあ行って良かった。
定番の観光スポットをまわっただけで収穫があったのでラッキーだったが、もともとフランクフルト学派の本拠地であるというだけで、とりあえずこの街に降り立ったのだ。先ほどの投稿のとおり、社会研究所に行くという目標も達成できたので、時間をふんだんに使い、フランクフルト大学のカフェテリアで『若きウェルテルの悩み』を読んだ。これはこれで楽しい時間の使いかただ。
僕が初めてこの本を読んだのは15歳の時だったはずだ。
高校の時に、友人たちの尽力虚しく「なんか違う気がする」のひと言で形而上学的な失恋をした。人間関係の線引きについての難題を解くには、15歳の僕はあまりに幼かった。
その悶々とした僕の様子を見て、当時、胸いっぱいの信頼を寄せていた世界史のT先生は「君は『若きヴェルテルの悩み』のヴェルテルと被るね」という、ありがたいんだかありがたくないんだか良くわからない言葉をくれた。それから初めてこの作品を読んだのだ。
ゲーテは僕が今いるフランクフルトという街の出身だ。この街の人たちは彼を「私たちの息子」呼び、彼がフランクフルトに生まれたことを誇りにしているようだ。
そして、たまたまこの街にいる僕はゲーテという叡智を足がかりにして、何かを乗り越えようとしているのかもしれない。
というのも、実は先月、3年半交際した恋人と別れた。
「僕たちは同性か、あるいはきょうだいとして生まれていれば、もっと親密な関係になれたのかもしれない」とかそんな事を話した。もっとも、男女として惹かれ合わなければ、ここまで親しくなっていなかったのかもしれないけど。
嫌いになったとか、他の誰かが好きになったとか、はっきりとしてて、なおかつ決定的な理由はなかった。たぶん、あまりにもふたりが似すぎていたのだと思う。お互いが交際している意味を見出せなくなったのだ。極めて文学的な失恋だった。
正直、彼女とは50、60年先の未来を想像できるくらいだったし、僕の母親とも仲良しになれそうだった。(まあ、僕の母親のような人と上手くやっていけない人の方が珍しいと思うが)ゆえに、なかなか沈んでいる。
僕のロッテ役の女性はどこにいるのだろうか。
旅先で出会うことになるのだろうか。それとも立教に戻った後の来学期?
もしかしたら、もう身近にいるのかもしれない。
センチメンタル・ジャーニーは始まったばかりだ。これからなにが起こるのだろう。
少なくともフランクフルトでは、消費する対象としての〈概念〉について実感できたように感じる。脱工業化以後の都市経営では、これが重要なのだと松本先生がお話していた。
時差ボケでうまく眠れない。
ついでにいうと、僕の部屋はエレベーターの真横にあるので、だれかが乗るたび、ベッドがガタガタ揺れて起こされてしまう。
というわけで、こうして一泊40ユーロくらいのビジネスホテルの物書き机で、キーボードをペチペチ叩いている。こういう時、一人旅はとても孤独だ。それでもSNSに逃避できるだけ幸せなんだろう。そして、文章を書くと気も休まる。
(それにしても饒舌ですね。キーボードを叩く手が止まらない。たぶん留学や一人旅は向いてないんだろう)
それでは、今日はさようなら。
明日はボン大学に留学中の我らが誇りの太田豊太郎こと、藤村氏の家に行きます。そのまましばらくお世話になります。
それで、たぶん、孤独も解消されるでしょう。彼と会うのは伊勢丹屋上のビアガーデン以来。一緒にドイツ・ビールを飲むことがとても楽しみだ。
フランクフルト滞在日記① 現代社会の批判理論の本拠地へ
フランクフルト学派の本拠地、社会研究所に行った。
僕が卒論のテーマにしようとしている公共圏(詳しく言うと「対抗的公共圏の形成過程」である)について論じる人が避けては通れない、ユルゲン・ハーバーマスが2000年くらいまで研究していたであろう場所でもある。
「この建物はアメリカや公衆の援助によって再建された」(画像を参照:謙遜ではなくほんとうに拙訳なので真に受けないでください)というレリーフがあり、ナチスによる弾圧と研究所の亡命を思い出して、胸が熱くなった。
それぞれの理論はともかく、フランクフルト学派の歴史について勉強してきて良かった。心からそう思う。
そして、亡命の過程で、ヴァルター・ベンヤミンが僕の親くらいの若さで亡くなっていることも、そのレリーフは思い出させた。フランクフルト学派が「どうしてあんなことが起きたのか」と研究対象にするファシズムがなければ、まだまだたくさんの研究を残したはずだ。いろいろな想いが込もっている。
当然、道路を挟んだ向かいはフランクフルト大学(Johann Wolfgang Goethe-Universität Frankfurt am Main)で、
今日知った無駄知識によると、ゲーテ本人はライプチヒ大学やストラスブール大学に通った。つまりゲーテとは関係ないにも関わらず、フランクフルト大学にゲーテの名が冠されていて、ほんとうにこの街の人はゲーテが大好きなんだと思った。
とにかく、仕事場まで見に行ったのだから、さぞかし卒論も頑張れることだろう。来て良かった、フランクフルト!
国外逃亡
プロボノとしての宗教
立春に際しての声明
インド日記
以下はインドでホメオパシーの勉強をしている日本人女性のブログのリンクです。
先ほど述べた母子一体感だけではなくて、僕たちの思考に潜在的に働きかける社会通念や常識はやっぱり未だに機能しています。会社の制度上、育児休暇がとりにくい(もはや会社や政策の機能不全と呼ぶべきである)状況や、なんとなくという理由で、就活で苦しんでせっかく入った会社なのに、辞めてしまう人が多いことが、データとして明らかになっています。また、僕がこれまで出会ってきた大学の女子は、とても優秀で、それこそ働かなければ日本の損失のような人ばかりですが、意外にも専業主婦志向が強いように思えます。
男女共同参画社会はいまだに広範囲で実現されてはいないでしょう。育休を取れる人が、福利厚生のしっかりしている有名な上場企業に勤める人だけに限られていては意味がないのです。
イスラムは悪くない
http://www.tokyocamii.org/…/%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%83%a9%e3%…
リンクは一連のテロ事件にかんして出された東京ジャーミーによる声明です。
声明は、クルアーンの「人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである」(食卓章第 32 節)を引用して、問答無用に人の命を奪うことはイスラムの教えに反していると強く主張しています。
東京ジャーミーは、1917年のロシア革命によって日本に逃れてきたトルコ系のムスリムたちが建てたモスクです。小田急線が代々木上原を通過するときにミナレットが見えます。...
僕は3年前のフィールド実習で、このモスクにインタビューに行きました。17世紀のオスマン様式で建てられたとても美しいモスクで、首都圏のムスリム社会の中心的な場所です。
桜井啓子の『日本のムスリム社会』(2003)によると、東京・神奈川・埼玉・千葉の首都圏に住むムスリムは約18000人(データの出典が入管協会の『在留外国人統計』で、登録されている外国人のみの数字なので、実際はもっと多くの人が滞在していると考えられる)で、金曜日になると、500人を超える人が集まるというお話を聞きました。
政治的な主張を行うのに暴力のみで訴えることは、イスラム教の教えにも、7世紀以降、現在まで築かれてきたイスラム社会のあり方にも反しています。このことを、イスラム教のあるこの世界に住むわれわれは認識すべきだと強く思いました。
また、声明からは、テロに対する抗議とともに、十把一絡げにイスラム=危険とみなされることへの懸念も読み取れます。こうしたステレオタイプによる思考停止に陥らないためにも、ここ数十年で、宗教的な意味づけがされたテロ行為が頻発している背景を理解するべきだと思います。
島国であることと江戸幕府による鎖国の影響(?)で、同質性の高い社会に生きる日本人のなかにも、約10万人のムスリムが暮らしています。こうした少数者にたいしての無関心やステレオタイプは、無神経と構造的暴力につながってしまうものだと思います。
ここから自分のテーマと関連付けて、脱原発=左翼とか、9条改正推進派=ネトウヨのような、ステレオタイプによる思考停止は、公共性において形成される人々の意思を、唯一の正統性の源泉とするべき、民主的な法治国家の存立を脅かすものだと危惧します。こうしたステレオタイプに陥らないためには、ジャーナリズムと学問の世界とが少数者の意見を代弁するべきだと思います。僕はそういうものを担っていける人間になりたいです。