Maekazuの社会学

社会学を学ぶ大学生が、その時々思ったこと自由にを書きます。

枕木は燃えて

人の書く日常の取り留めもない出来事の記録や、全く意味を持たないような文章を読むのが無条件で好きだ。

もし携帯電話やスマートフォンそして本や新聞が手元に無い場所に監禁されたら、加湿器の取扱説明書でも手当り次第に読みだすだろう。なぜなら僕はトイレで便座に座りながら、置いてある芳香剤の成分表を読む程度に活字中毒だからだ。

だからこそ、人のとりとめもない日常を記した無意味な文章を読むのが好きだし、それが鏡の中の虚数i以上に意味を持たない文章であれ、書くのも好きだ。(たぶん線路の枕木について500字くらいの文章ならすぐ書けるだろう)

枕木の話
高校生の時、キャンプ・ファイヤーに使いたいと、JRの越谷貨物車両基地にお古を貰いに行った話がある。この貨物列車のための駅は越谷レイクタウン駅(「商業主義のパンテオン」と18歳の僕は呼んだ)と南越谷駅の間に位置し、かなり広大だ。廃棄される枕木はかならず所定の処理方法があり、そのためのルートもしっかりあるはずだろう、JR東日本ほどの大企業なら。コンビニやスーパーマーケットに段ボールを貰いに行くのとはわけが違う。それでも最後にはしっかり譲り受け、キャンプ・ファイヤーで活躍した。使用済みの枕木は油を含んでいて、よく燃えたそうだ。日本を揺さぶる大きな震災が起こる前の埼玉の小話である。・・・

 

今週の話
月曜日
唯一の授業が休講
所属団体の仕事、保険の手続きを済ませ、ランニングと犬の散歩。
夕食を作る。ハンバーグに付け合わせのサラダ、米を炊いた。

火曜日
現代社会研究
男女雇用機会均等法の成立過程を学ぶ。労働省と総評のラディカルなおばさんとの交渉。まずは法律作ることに専念し、ついに女たちの闘いは実を結ぶ。

グローバル社会論
満蒙開拓団が1972年、中国との国交回復により、ようやく帰国する。気の遠くなるような長期間である。
その間、現地の人たちと結ばれてできた子供達に日本語を教えてきた人がゲスト・スピーカーの善元さんだった。
最近はニューカマーの子供達だ。
アジア系労働力の国際移動は、もはや避けられない。21世紀の前提である。
文化(言語)の抑圧は、望まずして日本にやってきた子供達のアイデンティティクライシスを招きかねないと警鐘を鳴らす。
新宿区立大久保小学校の全児童のうち国際結婚などで、外国にルーツを持つ子供が7割ほど。
しかし、今はたんなる日本語学級ではなくて、彼らの母語文化を大切にする「日本語国際学級」的な教育に重きを置いているそうだ。


東京には中国・朝鮮・タイ・ミャンマー・フィリピン、たくさんの外国にルーツを持つ人々が暮らしている。
そして、出身国による棲み分けもなされている。
インド人は江戸川区、モンゴル人は板橋区中国人は我らが豊島区、朝鮮ルーツの人たちは新宿区だ。フランス人も新宿区内に多いが、かれらは神楽坂にとても多いらしい。区内でも棲み分けがなされている。レイシャル・セグリゲーション・イン・トーキョウ・・・

その後、池袋のT塾で講師の採用試験。
センターレベルだから、とみくびっていたら意外と難しい。和歌の解釈なんて2年以上ご無沙汰だ。

スーツを着て登校したため、「らしくない格好してどうした?」「珍しい格好してるな」など知り合いとすれ違う度に言われた。
体制側の象徴たるネクタイを締めるのは僕にとってあまりない。けど、この町じゃ、プロレタリアートしないと何もできない。第一歩を踏み出した。

 

とにかく僕のプリンシプルでもあるのだが、学問に生きるなら反権力が基本テーゼだ。在野であることの誇り。しかし、これは日本独自なのだろうか。

韓国では大学教授が国会議員を務めることが珍しくない。また、社会学でいえば、アンソニー・ギデンズはブレア労働党政権のブレーンを務めた。「公共性」にガツンと大きな衝撃をあたえた「第三の道」である。

 

最近うまく眠れない。今晩もこれからゼミのレポートを書く予定だ。

上海における石庫門住宅のリノベーションについて。石庫門住宅は西洋式と中国式が融合したような低層住宅である。ざっくりいうと。

このまちには植民地だった歴史がある。それが日本の都市を考えるときと決定的に違う点だ。

 

それでも眠くならなければ、ドストエフスキイの「カラマーゾフ兄弟」を読み進める。

上から順に、「バカ、優秀、優しい」の3兄弟の物語だ。ざっくりいうと。

ぼくはこれを読んでキリスト教について考察せねばなるまい。もっとざっくりいうと。

 

窓からは心地の良い風が吹き込んでくる。キーボードをたたく手はますます饒舌だ。

たぶん、レポートを書くのに初夏の宵はあまり好ましくない。それで結構。

無駄な部分は冷静な昼間にでも削ればいい。意味のない無駄な文章を書くのが本質的に好きなのだ。